開けゴマ

自分では新しもの好きだと思っているのですが、どうにもやる気が起こらないものもあります。スマホに向かって音声で指示を出すというやつもその一つです。開けゴマと唱えると岩壁が開くようなものですが、あれって、どういうときにやるんでしょう?
人混みでやると、周囲の人がびっくりしてしまうでしょう。電車の中ではやりにくい。タクシーの中でやったら、「お客さん、なんですか?」と運転手さんに問いかけられてしまいそうです。部屋の中に自分一人でいるときなら不都合はなさそうに思いますが、そのシーンを想像すると、なにかおかしい。
知り合いの経営者に、部下との会議の最中にもスマホに語りかけて調べ物をするという人がいます。「平気ですよ」とおっしゃるのですが、どんなものでしょう? 部下のみなさんも奇異に感じていて口に出せないだけなのではないでしょうか。
音声入力で原稿を書く人もいます。これは便利だろうと思いますが、文章言葉でしゃべることに抵抗があります。
著名な写真家が誤植だらけのブログを毎日書いています。おかしいなあ、と思っていたら、タブレット端末に音声入力をしているのだとわかりました。それは結構ですが、公開して多くの人に読ませるなら、入力後の文章の校正くらいしたらどうだと言いたい。まだ音声入力はそれほど信頼できるレベルには達していないようです。

SNSは単純接触効果がよく出る?

SNSの浮沈は激しく、さしものFacebookもこのところ勢いが鈍ってきたような印象を受けます。ニュースフィードに掲載されるコンテンツが面白くなくなりました。どうしてだろうと考えたら、ある時期から「友達」を増やしていないことに気づきました。熱心な投稿者だった人もだんだんと飽きてくる。すると相対的に職業的あるいはマニアックな投稿者の書き込みや、特定の「友達」が「いいね」を押した投稿ばかりを読まされることになります。テーマの幅が狭くなっているようです。Facebookの勢いではなく個人的な問題でありました。
筆者の場合、午前中は反保守の記事、午後は保守系の記事が多くなります。反保守の「友達」は午前中にFacebookをチェックしていて、保守系の「友達」は午後にチェックしているためです。その影響で午前中は反保守で、午後は保守になっております・・・そんなことはないか。
がんの非標準治療を舌鋒するどく批判する投稿ばかり読んでいるので、わけのわからない免疫療法を受けようという人がいたら、断固止める決意をしております。
「いいね」をしたグループの投稿もどんどん表示されます。その中に蕎麦好きのグループがあって、毎日どこそこの蕎麦屋へ行った、こんな蕎麦粉で打ってみた、といった書き込みを読んでいます。すると蕎麦が無性に食べたくなってきます。
これらは、何度も見たり聞いたりすると次第によい感情が起こるようになってくるという単純接触効果(ザイアンスの法則)そのものです。意外に単純接触効果が出やすいのがSNSなのかもしれません。

「ところでございます」

このところ「ところであります」をよく耳にします。もともと役人言葉として使われてきたようです。何事かを要求される、あるいは批判されると、〈その件はすでに把握していて手は打ってあります〉と釈明する際に使われることが多いようです。ところがこの役人言葉を、最近は政治家もやたら使い始めました。
以下は、先の都議会議員選挙で、「防衛相、自衛隊としてお願いしたい」と発言した問題に対する稲田大臣の釈明記者会見からの引用ですが、
「今日も含めて、一昨日の演説の直後に二度趣旨は説明いたしましたが、今日冒頭でも明確にさせていただいたところでございます。」
「こういう趣旨を繰り返し申し上げてきたところでございますし、・・・」
「誤解を招きかねない『防衛省・自衛隊、防衛大臣』のところは撤回をしているところでございます。」
「私は自民党の国会議員として、応援演説に伺ったところでありますが、」
「誤解を招く発言については撤回し、そして、お詫びを申し上げているところでございます。」
「誤解を招きかねない発言であったことから撤回し、お詫びを申し上げているところでございますが、」
「私の意図はあくまでも自民党員として、自民党の候補者を応援に伺っているところでございます。」                   (防衛省発表「防衛大臣記者会見概要」より抜き書き)
まだまだありますが、このあたりでやめておきます。
これをまともな表現に書き換えますと、
「今日も含めて、一昨日の演説の直後に二度趣旨は説明いたしましたが、今日冒頭でも明確にさせていただきました。」
「こういう趣旨を繰り返し申し上げてまいりましたし、・・・」
「誤解を招きかねない『防衛省・自衛隊、防衛大臣』のところは撤回をしております。」
「私は自民党の国会議員として、応援演説に伺ったわけですが、」
「誤解を招く発言については撤回し、そして、お詫びを申し上げております。」
「誤解を招きかねない発言であったことから撤回し、お詫びを申し上げておりますが、」
「私の意図はあくまでも自民党員として、自民党の候補者を応援に伺っているわけでございます。」     
どうして、こんなフツウの言葉が使えないんでしょう? そこに何ものかが潜んでいるようです。
政治家や役人の口から「ところです」、「ところでございます」が出て来たら、何かを守ろうとしているんだな、と思って間違いありません、と推測しているところであります

日野原重明さん逝く

日野原重明さんが亡くなりました。
医療機器会社にいたころ、何度かお目にかかりました。すでに90歳代だったかと思います。日野原先生に関しては、いろいろな思い出がありますが、その一つ。
社内報の取材で、元気のよい女性の部下が二人、先生の取材に赴きました。帰社した二人をみるとグッタリした顔をしています。
彼女らによると、取材が終わったら急に強い疲労感に襲われたのだそうで、「なんだか日野原先生に精気を吸い取られてしまったような気がします」
偉大な人物への取材なので特別に緊張したのかもしれませんが、日野原先生の元気は若い人から吸い取った精気によるものかもしれないと、私ではなく、彼女らは信じ込んでいたのでした。実話です。
ご冥福をお祈り申し上げます。

メラビアンの法則

「人は見た目が9割」などと誤解、というより意識的に悪用されまくっている感があるメラビアンの法則ですが、正しく説明しようとすると意外に難しい。広報のセミナーなどでは、シンデレラの継母を例に説明しています。
家中をきれいに掃除したシンデレラが継母に「お母さま、掃除はすべて終わりました」と報告します。すると継母は、シンデレラを睨みつけながら、「そうかい、それはよくやったね、シンデレラ。オマエはよく働くいい子だね」と言います。そのときシンデレラは、継母の表情や語調から、継母が本当の気持を述べてはいないと見抜いてしまいます。
学問的な正確性には自信がありませんが、これがメラビアンの法則です。
しかし、もっとよい例がありました。昨今のモリカケ問題に関する政府答弁です。与党政治家や官僚が言葉では否定したり、しらばっくれたりを延々と繰り返していますが、テレビ中継を見ている国民は、それが真実ではないことを、彼らの表情や態度や言い方から十分に読み取っています。彼らには、内容には問題があっても、「人は見た目が9割」といった本を読むことをお薦めしたいですね。

投票のセキュリティ

一応都内に住んでいるので、昨日の都議会選挙も投票してきました。自民党が惨敗しましたが、これからの国政はどうなるのでしょう。各紙もそのあたり奥歯に物がはさまったような書き方です。要するに「わからない」ということなんだろうと推測しています。わからないことを「わからない」と書かずに、わかったような表現をするのが日本の新聞の悪い癖です。
それはともかくとして、投票所へ行くたびに不思議に思うことがあります。事前に「投票所入場券」というものが自宅に送られてきます。それを持って行くと、氏名を読み上げられて、「はい」と答える以外に、なんのチェックもなく投票権が交付されます。それでいいんですか?
選挙民はみな顔見知りというような地域はともかく、東京では立会人と面識を持っている人は一部に限られます。身代わり投票をしようと思えば実にたやすい。
たとえば配当を受け取りに、自宅に送られてきた郵便振替通知書を持って郵便局の窓口へ行くと、身分を証明するものの呈示を求められます。政治を左右する投票の方が、金銭の受け取りよりずっとセキュリティが緩やかだということなんです。

新聞の投書欄

今朝、朝食をとりながら新聞を読んでいたら、投書欄に学生時代の友人の名前を発見しました。そこで改めて投書欄を眺めると、投稿者のほとんどが高齢者と若年者であることを再認識させられました。担当記者が意識的に若い人の投書を取り上げているのでしょうが、新聞購読者の現在の姿をそのまま反映しているとも言えます。若年者は、親や祖父母が講読している新聞を読むことができますが、成長して実家を離れたら、新聞を購読することは、たぶんありません。
学生時代の友人の投書はこれが初めてではありません。警句のような風刺のような短文も投稿していて、ときどき採用されています。ソーシャルメディアにはまったく縁がありません。日常的にTwitterやInstagramやFacebookなどで発信している人が、いまさら新聞に投書する気にはならないでしょう。
新聞の投書欄の役割を否定するつもりはありませんが、なんとなくシャッター商店街を眺めたときのような、寂しさ、空しさを感じてしまったのでした。

余計なことばかりしてるんじゃないよ、ってか?

一人の高齢者が、もうそろそろいろいろな仕事をするのがしんどくなってきたなあと考えて、「もうやめたいよ」と言ったら、「オマエは余計な仕事ばかりしているからしんどくなるんだ。ハンコを押すためだけに生まれてきたんだから、死ぬまでハンコを押していればいいんだ」と言い放つ人が現れました。ヒドイことを言いますね。このような、一人の人間の生き方を否定する考え方は、回り回って障害者否定にも通ずるものではないでしょうか。
他人事ではなく、こちらも「余計なことに首をつっこんでばかりいないで、本業をしていればいいんだ」と言われそうですが。

これが「先生」なんですか?

自殺者を出した学校や教育委員会の記者会見をニュースで見ると、哀れを感じると言うか、悲しくなると言うか。こんな「先生」に「教育」を受けていていいんだろうか、と思います。事実を隠す、責任を回避する、知らぬ顔をする、保身に走る、建前を振りかざす、ウソをつく。そして、裁判でいじめがあったと認定されると、あっさりと前言をひるがえす。これが「先生」なんですか?
もっとも先生の親玉である文部科学省だって、事実を隠す、責任を回避する、知らぬ顔をする、保身に走る、建前を振りかざす、ウソをつく。まったく同じことをしているようですから、仕方がないんでしょうね。いや、仕方がないなんて言ってはいけませんね。なんとかしなければ・・・。

大笑いの効果は?

テレビでプロ野球中継を見るとき注意しているのは、味方に点が入ったときの監督の態度と表情です。選手と一緒に大喜びをする監督とクールな監督がいます。それぞれの性格を反映しているのだと思いますが、チームに与える影響としてはどちらが好ましいのでしょうか。
昔の監督、たとえば川上監督などはあまり喜ばなかったような気がします。「気がします」というのは、その頃テレビ中継をあまり見ていなかったからですが、長嶋監督などは大喜びする方でしたね。
人の上に立つ人間は喜怒哀楽を表に出すな、というのが少なくとも明治以降の日本の教えでした。だから昔のエライさんや威張っているお父さんは嬉しいことがあっても無理して仏頂面をしていたものでした。
いまの監督もいろいろですが、点が入っても仏頂面をしているような監督はいなくなったようです。
それにつけても興味深いのは北の指導者です。ミサイルが成功したといっては満面の笑み、というより大笑いしている映像を国営通信社が配信しています。少々笑いすぎではないか、とも思うのですが、そんな表情の写真を配信することが国益にかなうと向こうの人は判断しているのでしょうね。大笑いがどのような効果を世界の世論にもたらしているのか、だれか検証してみたらいかがでしょう。