カステラとおくんち

2年前まで勤めていた社員が福砂屋の「特製三五焼カステラ」をお土産に会社を訪ねてくれました。折しもこの7日から長崎のおくんち(長崎くんち)が始まります。
何年か前におくんちを見物に行きました。町内ごとに異なった傘鉾や曳物を持っているのは京都の祇園祭と似ています。ただ、その年に出演できる町内が決められていて、踊町と呼ばれるその順番は7年に一度しか巡って来ません。
メイン会場で見物していたら、ある演じ物にかわいいお稚児さんが登場しました。スピーカーで紹介されたそのお稚児さんは福砂屋さんのお孫さん(?)でした。こういう役割はやはり地元に貢献している老舗、名士の家に割り振られるものなんですね。
おくんち見物の記憶より、そのことが妙に印象に残っています。

ノーベル賞週間

大隅氏にノーベル賞が授与されることが発表されて、今年もノーベル賞週間が始まりました。日本人が受賞するとメディアはその話題ばかりになりますが、そんなことがいつまで続くのでしょうね。
湯川博士が1949年に受賞してからしばらく日本人の受賞がありませんでした。もう日本人は受賞できないのではないかとか、人種差別だといった悲観論が出ていたときに、16年ぶりに朝永博士が受賞しました。そのときは日本中が大喜び。そういうことならまあ理解できますが、すでに26人も受賞しているんですからね。日本人以外の受賞者に対しての冷淡さと比較すると、さらにその異常なはしゃぎぶりが際立ちます。受賞は素直に祝福するとしても、授賞式までの間の大騒ぎにはメディアの商業主義の臭いもして、いささか違和感を覚えますね。

反論は無茶でしょう

国立がん研究センターが、受動喫煙によって日本人の肺がんリスクが約1.3倍に増えると発表したのに対して、JTがすぐに社長名で反論しました。ところが、がんセンターが先週、再反論をホームページのトップで発表したと朝日新聞が報じました。
http://digital.asahi.com/articles/ASJ9Y5GC8J9YULBJ00J.html
さっそくそれらの文書を読んでみたのですが、がんセンターの反論は極めて冷静かつ理論的で説得力のあるものでした。明らかにJTの負け。疫学ないし医療統計学に対する無知をさらけ出し、科学的な会社ではないなあ、というイメージを発散させてしまいました。
想像するに、がんセンターの発表で、JTははらわたが煮えくりかえったのでしょうね。「すぐに反論しろ!」とトップから号令がかかったのかもしれません。しかし、敵は日本の疫学の総本山。生半可な知識と理論で対抗しようとするのは極めて困難です。そのことに気づかなかったのがそもそもの敗因ではないでしょうか。広報的にはツッコミどころがいっぱい。いきり立って真っ正面から反論するのではなく、ほかにも有効な手段が考えられたと思うのですが、筆者もアンチタバコなので、これ以上は書きません(^O^)。
国立がん研究センターの発表「受動喫煙による日本人の肺がんリスク約1.3倍
肺がんリスク評価「ほぼ確実」から「確実」へ」8月31日
http://www.ncc.go.jp/jp/information/press_release_20160831.html
日本たばこ産業株式会社(JT)の反論「受動喫煙と肺がんに関わる国立がん研究センター発表に対するJTコメント」(8月31日)
https://www.jti.co.jp/tobacco/responsibilities/opinion/fsc_report/20160831.html
国立がん研究センターの反論「受動喫煙と肺がんに関するJTコメントへの見解」(9月28日)
http://www.ncc.go.jp/jp/information/20160928.html

できないヤツほどバタバタする

若いとき、ちょっとした大仕事をやり終えたので、ものすごく大変で苦労しましたと上司に言ったら叱られてしまいました。誰でも苦労して仕事をしているのだから、そんな程度で大騒ぎするなということでした。できる人ならそれほどのこともない仕事だったのかもしれません。未熟な故にバタバタしてしまったということだったのでしょう。そのときは、よくわかりませんでしたが。
その後、できない人ほどバタバタ大騒ぎして、その割には大した成績が挙げられない。できる人は涼しい顔して仕事をしていながら、よい成果を挙げるということが実感としてわかってきました。仕事はクールにやりたいものです。

否定されるとねえ

お話をした後で、なんとなくよい気分になる場合とイヤな気分が残る場合がいますね。もちろん叱られたり、無理な注文を押しつけられたりすればイヤな気分になりますが、平和にお話したときの後味のようなものに違いがあります。
それにはさまざまな要素がからんでいると思うのですが、相手の方が受容的な受け答えをする方か否定的な受け答えをする方かという点が大きく影響しているように思います。日常の会話では意識することはありませんが、よくよく注意して観察していると、「へえ」とか「なるほどねえ」とか「そっかあ」と受ける人と、とっさに拒絶したり反論したり言い訳を言ったりする人がいることに気づきます。否定されることは、たとえ最後には受け入れられたとしても気分のよいものではありません。
肯定しているつもりで「いやねえ」などと相づちを打つ女性がおられますが、あれも感じのよいものではありません。「イヤよイヤよもヨイのうち」などと怪しからぬことを昔の人は言っていましたが、もちろんそれとは異なる意味でです。

実に危うい

危機広報に関する講演の準備を始めています。企業でクレーム対応をしておられる方々が対象なので、危機に際しては広報担当者が重要な役割を果たすということを強調しようと思っています。
危機に臨んでは、全社的な対策本部を立ち上げるのが鉄則で、その中に広報の責任者や担当者が加わるのはいまは常識になっていると思っていたのですが、その面では先進的であるはずの製薬や医療機器の企業でも広報担当者が蚊帳の外に置かれている例があるようです。実に危ういと思うのですが・・・。

ガバナンスの問題でしょう

豊洲の市場用に建設した建物(回りくどい表現だなあ^^;)の地下に溜まった水は地下水で、その水は飲めるのだそうです。それなら問題ないじゃないかといったコメントがネットで盛んです。そういう人たちは、この問題は科学的に考えなければならないと主張します。
それは違いますよね。より重要な問題はガバナンスです。政治学的には文民統制の問題です。国会でどんな議論をしていようとお構いなく自衛隊ではICBMと核弾頭を導入してしまった、というのと同じことですよ、これは。この際、そこのところをしっかり確立してもらいたい。その上でなら、市場が豊洲に移転してもしなくても大した問題ではないような気がします。

生徒が先生?

たまたま再放送していたNHK「総合診療医ドクターG」という番組を見ました。患者の症状を劇中劇で見せて3人の研修医が診断を下し、それを経験豊富な医師が先生となって正しい診断へと導くというもの。少々専門的すぎるような気もしないではありませんが、一般の人たちにとってブラックボックス化している診断学を公開するという意義はあると思います。それはともかくとして、違和感を覚えたのは、先生役の医師が研修医に対して「○○先生」と呼ぶことです。医師免許を持っている同士は先生と呼ぶという長い業界の慣習によるものですが、生徒に向かって「先生」呼ぶのはやはりおかしい。
先日、読売新聞医療部におられた方のお話を聞く機会がありました。同紙の看板コラム「医療ルネッサンス」では、スタート以来、医師も患者さんも「さん」づけにしているとのこと。一つの見識だと思います。

ここにおられたか!

ときどき朝の半蔵門駅で電車を降りるど派手なお姿のオバチャンを目撃します。お生まれは戦後とお見受けします。厚化粧(都知事の10倍は厚い!)で、目の周囲は長いつけまつげともども真っ黒です。電車のシートからかかとの高いパンプスを履いた足がぶらぶらするほど小柄ながら、濃いめのピンクと黒を基調としたお洋服は極端なミニスカートです。
このオバチャン、どこかでお会いしたことのある方だなあと思いながら、ずっと思い出せませんでした。
先日、近くの蕎麦屋に入ったら、そこにおられました。元気にお客さんから注文をとっていました。ど派手なお姿の上に白い上っ張りを着ておられるから、すっかりお見逸れしてしまったわけです。人を服装で判断してはいけないと申します。これもその一例でしょうか。いや、ちょっと違うな(^○^)。

ゴミと排せつ

いま横浜市の文化センターを利用して開催されているイベントに参加しております。300席のホールや音楽練習室、ギャラリーなどを備えた立派な施設で、駅にほぼ直結しているという足場のよさも抜群。係の人たちも親切です。
しかし、この施設にはゴミ箱が一つもありません。ゴミはすべて持ち帰れ、ということのようです。外部からゴミを持ち込まれるのを防止するためもあるのでしょう。それはそれで理解はするのですが、社会的存在としての人間は何かの活動をすれば必然的にゴミを発生させるものです。生理的存在としての人間は必然的に排せつするもので、それへの対応としてはきれいなトイレが用意されていて、外部からトイレだけを使わせていただくことも可能です。
利用料金を払って使用しているのに、ゴミ処理を拒否するというのは、どうにも合点が行きません。