急に舵は切れませんが

生来いろいろなものに興味があって、あれこれ手を出すものの、どれもモノになりません。そんなあれこれの一つに写真があります。そこでたまにカメラメーカーが主催するセミナーや写真クラブに顔を出すのですが、そこはまさに老人会そのものです。若くて40代。それもチラホラです。杖をついておられる方の方がはるかに多い。若いカメラマニアもたしかに存在するものの、カメラ産業の将来が明るいとはとても思えません。
性能のよくなったスマホで十分。プロカメラマンもSNSに投稿するときにはスマホを使っています。クルマも、若い人たちは実用上しかたなく所有しているにすぎません。多少スポーツカーが売れても大勢に影響はありません。
こういう価値観の変化に大企業も気づいてはいるはずですが、大型船ほど急には舵が切れないのでしょうね。

取り残される瞬間

先日二人の高齢者とお話しする機会がありました。お一人は大会社をリタイアしていまは講演活動をしておられる方、お一人は女流音楽家です。たまたま話がFacebookに及び、音楽家が「私、ああいうの苦手なのよね」とおっしゃったら、すかざず相手の方が「あんなものやらない方がいいですよ!」と言い放ちました。嫌悪感さえ感じられる勢いでした。
その方の現役時代にはFacebookなど存在しませんから、使ったことがないのも当然と言えば当然ですが、80歳を超えても個人サイトを持ち、毎日Facebookに書き込んでおられる方が知人の中に複数存在します。だから一概に年齢だけを問題にすべきではありません。しかし、多くの年寄りはこうして新しい技術から取り残されていく。その現場に立ち会ってしまったような気がしたのでした。
SNSを知らなくても人間の価値には何の影響もありません。SNSを手放しで絶賛すべきものとも考えてはおりませんが、脊髄反射のように拒否反応を示されたことにはいささかショックを受けました。加齢とともに新しい物事を理解したり使ったりする意欲を失うのはやむを得ないとして、そこに嫌悪感まで伴うということには初めて気がつきました。これは初対面の人に対して警戒感や嫌悪感を持つのとどこか共通したことなのかもしれません。

どうでもいいことですが・・・

SMAPが解散するのだそうです。職業柄一応チェックはいたしますが、個人としてはあまり関心がありません。そもそもデビューしたときからファンではありません。ヘタクソな歌や子どもっぽい歌詞が気に入りませんでしたから、どうしてあれだけの人気になったのか、肌感覚として理解できません。
高校野球にも個人としては関心がありません。これは東京の高校を卒業して、その高校も予選一回戦敗退ばかりを繰り返していたためでしょう。地方育ちのみなさんの熱狂を別世界のことのように感じております。
友人にヤクルトの熱烈なフアンがいます。ファンクラブにも入っていて、神宮球場にもしばしば足を運んでいます。この男に誘われて試合を見に行った別の友人の話によりますと、敗戦濃厚な試合運びにゲームセットまで「バカヤロー、バカヤロー」と大声で叫び続けていたとのことです。この心境がまったく理解できません。
どれもこれも大勢に影響ないことのように思うのですが、それぞれ人生の一大事だと考える人も少なくないということは、広報に関わる者として押さえておくことべきことなのでしょうね、きっと。

健常者にはわからない

盲導犬を連れた目の不自由な方がホームから転落したという痛ましいニュースがありました。ご本人はもちろんお気の毒ですが、盲導犬もまたどんな気持で事故を見ていたのでしょうか。そんなことが妙に気になります。
友人にも初老期から目が不自由になった方がいます。ときどきご一緒に外出します。慣れた道筋はお一人でもスイスイと歩きますが、馴染みのない場所には戸惑うようです。「はい、ここから階段。ここから踊り場。次は右です。少し左へ寄ります」などと生の音声ガイドをしながら目的地まで誘導しますが、本当に「不自由」なことだと思います。
その友人も新宿の私鉄のホームで柱に激突してお岩さんのようになったことがあります。その私鉄駅はなにか歩きにくく、別の私鉄駅の方が歩きやすいと言っていました。障害者にだけにわかる違いがあるようです。

ブランドバラバラ

P1020630必要があってこのところ「ブランド」について勉強し直しています。手持ちの書籍を読み直し、ネットも検索して再認識したことは、少なくとも日本ではブランドの概念が十分定まっていないということです。実際に解釈はバラバラ、説明もいろいろなのです。共通しているのは、D.A.アーカーの引き写しの部分だけだと言ってよいでしょう。
こんなことを言うと大学の先生あたりから馬鹿にされてしまいそうですが、そもそもアーカー先生の記述がわかりにくい。原著は読んでいないので翻訳の責任かもしれませんが、あの書き方ではすんなり理解できません。だからみんな勝手に解釈している。たとえば「取引のテコ」という表現。だれも日本人にわかりやすいように説明できていません。
こんな混乱した状況のままブランドを語っていては、日本企業のブランドエクイティを確立するのは難しいのではないかと危惧してしまいます。

いりません

友人が、最近読み返した古雑誌の中のエッセイが面白かったから、読んでいなかったら今度会うときに持ってくるとメールで知らせてきました。
友人は善意から言っているのでしょう。それを疑う余地はありません。しかし、こちらも読みたい本や雑誌は山ほどあって、それがなかなか消化しきれません。星の数ほどあるエッセイの一つを私が読んでいる可能性など極めて小さく、また読んで見れば面白いのだろうとは思いますが、なにか押しつけられているようで気が重い。そろそろ蔵書やら過去の趣味道具やらを処分しなければならない年齢にもなってきました。しかし、友人から頂戴したものとなると、おいそれと処分もできかねます。
そういうわけで、その古雑誌をお持ちいただくのをきっぱりお断りしたのでありました。断るのもよい気分ではありません。だから、私も友人知人に本を差し上げることはほんとんどいたしません。

オリンピックと古い日本

オイオイ、これはないよなあ、と思ったのは私だけではないようです。オリンピック開会式での日本選手団のユニフォームです。1964年の東京オリンピックのビデオを見ているような気がして来ました。時代錯誤もいいところ。ネットでも批判が盛り上がっています。
私たちも仕事でよく経験するのですが、せっかくよい案を提出してもクライアント側でそれを見抜く力がない。陳腐な案が採用されてしまう。エライさんが決定権を持っていると、提案する側もエライさんの嗜好に合わせて企画を提案しますから、ますますおかしなことになって行く。こうして、日本では新しいアイデアが次々と消えて行きます。これではマイナス金利にしても国債増発で予算を膨らませても成長の手がかりはつかめません。
日本選手団は大手百貨店が手がけたそうですが、経緯は容易に想像できます。入場行進の旗手の後にエライ役員さんがゾロゾロ続いて選手がその後だったことも含めて、日本のオリンピックが、そして日本のシステムが古い日本のヒエラルキーと官僚組織によって動かされている証拠がこんなところにちょいと現れてしまったということでしょう。

お祭り休暇

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部下となった女性から真っ先に申出がありました。毎年夏に地元のお祭りがあって、その翌日は声が出ないのでお休みをいただきたい。そういうことなら休んでもいいよと即答しましたが、声が出なくなるお祭りとはどんなものか、その年の祭を早速見物に行きました。そこで見たのは、山車の高い高い屋根の上で半纏にパッチ姿で掛け声をかけている彼女の姿でした。彼女は生まれ育った町内のお祭りクイーンだったのです。
その八王子祭を一昨日久しぶりに見に行きました。山車上の小さな舞台で舞うお神楽とお囃子で山車同士が合戦をするのが見物です。一昨日は盆踊りの参加人数のギネス記録を更新したとか。東京でも23区内では知られていませんが、なかなかに盛大です。人出も多いのですが、浅草や神田あたりの祭に比べたら適度であるところが気に入っています。
かつてお祭りクイーンだった彼女の姿もありました。さすがにいまは屋根には乗らず、高齢者の車椅子を押しながら山車の後を進んでいました。女王から皇太后になったといったところでしょうか。これもボランティアの一つのあり方。地域と共生していることに違いはありません。あのとき、お祭り翌日の休暇を認めてよかったと考えています。

シン・ゴジラ

先月末に「シン・ゴジラ」という映画が公開されたそうです。「そうです」というのは、公開日の直後から、FacebookやTwitterなどから「シン・ゴジラ」に関する話題がどっと押し寄せてきて、初めて気がついたからです。じっくり思い返せば、新聞か雑誌で新しいゴジラ映画ができたようなことを読んだ記憶があります。しかし、公開日以降、オールドメディアからはほんとんど情報が届かず、ネット経由でもう結構というほど情報が届くという状況におかれました。プレイステーションでもデモ動画が見られるようで、新しいメディア総動員。それに鋭く反応した人たちがどんどん書き込んで来ます。なんだなんだこれは・・・。こんなに新旧メディアの違いを実感したことはありません。もうそうなっているんですね、現実は。

いま浦島

久しぶりにIRに関するご相談を受けました。いまはIRを本業としていないので、専門家を同道して企業さんを訪問。
実質的にIR関連の仕事から手を引いて8年あまり。マーケットの状況はもちろん大きく様変わりしていますが、企業の抱えるIRの悩みはあまり変わっていないようです。また、PRとIRの発想や手法にはものすごい違いがあるなあ、といまさらながら再認識させられました。日頃、PRとIRは連携すべきであると力説していますが、少々別世界に足を踏み入れた気分になってしまい、いま浦島であることをも痛感してしまいました。