テレビのコメンテーターの学歴詐称が話題になっています。10年以上もその世界で仕事をしてきたのですから、一定の評価に足るコメントはしていたのでしょう。それらのコメントに関してはとくに印象に残っていませんが、経営コンサルタントという肩書きには少々気になるところがありました。どのような会社のコンサルをしているのかな?と。今回の騒動起こってから、その実績はなかったと報じられています。ただのタレントだったということなのでしょう。
過去にもいろいろな事件に「コンサルタント」と自称する人たちが関わっています。どうもコンサルタントという肩書きは胡散臭い。信用しがたいイメージがつきまといます。
これは困ったことです。なぜなら、私の名刺には「広報コンサルタント」と印刷されているからです。
広報は広告宣伝より多くの予算が必要です
先週の金曜日に書いた「たぶんこれまでどなたも書いておられないと思われる内容が二つ」のもう一つの方は、「広報はお金がかからない活動なのに、どうして予算が必要なのでしょう」という問いに対する答えです。
広告宣伝部の予算と広報部の予算の違いは媒体費のあるなしの違いである、と言いきってしまいました。実際には媒体費に多少の広告制作費が加わりますが。
広報はお金のかからない宣伝だという古典的な認識がいまに至っても続いています。しかし、これは誤った認識です。広報は、いまや社会やステークホルダーとの双方向のコミュニケーションを担う業務へと変化しています。ミッションが拡大しつつあるのです。そうなると、広告と広報といった二元論はもはや通用しません。
そこで再び予算に戻りますと、広告宣伝部の予算から媒体費と制作費を除くと、残りはほとんど人件費と事務費しか残らないのに対して、広報部ではもろもろの活動費がより多く必要になるはずで、そこで比較すれば広報予算の方が多くなるのが当然なのです。
企業広報は無形資産を増加させる活動
昨日の朝活でもお話したことですが、「広報会議」4月号に書いた原稿の中に、たぶんこれまでどなたも書いておられないと思われる内容が二つあります。その一つは、企業広報は売上や利益に貢献するのかという問いに対する答えです。この問いは実に厄介で、予算を握っている経理や予算執行に目を光らせている監査部門の人たちから発せられると、なかなかうまく答えられません。
企業広報が財務諸表の損益計算書(PL)に反映されないのは事実だからです。厳密には反映されるはずなのですが、時計の短針のようなもので、毎年のPLを追いかけてもその動きを捉えることができません。これは貸借対照表(BS)においても同じことです。しかし、その会社がM&Aで合併するとか売却されるということになると、長年の企業広報によって築き上げられたレピュテーションやブランドは精密に評価されて「のれん」というかたちで数字化されることになります。
つまり企業広報とはは無形資産を増加させるための活動と定義されるのです。
これ、私が言い出しっぺだと思うのですがね(エヘン!)。
朝カツ!
司会進行の不手際で・・・
シンポジウムやパネルディスカッションて、必ずと言ってよいほど時間が延びますね。そしてお決まりのように「司会進行のい不手際で、予定の時間を超過してしまいましたことをお詫び申し上げます」というコメントが発せられます。あれって、確信犯なのでしょうか。
そもそもパネリストの人数に対して時間枠が短すぎることが多いようです。冒頭のパネリストによるプレゼンテーションは、一人5分と決められていてもほとんど守られない。慣れていない方は発言のポイントを絞り込めず、よい機会だからとあれもこれも盛り込みすぎます。これは運営側の怠慢でもあります。事前チェックが甘いわけですが、エライ方だったりすると、「多すぎますよ」とも言えない事情が発生します。
そして、残り時間が5分もないのに「それでは最後にお一人ずつまとめのご発言をいただきます」などと司会者やコーディネーターが促すのはどういう神経なのでしょうか。予定時間を過ぎると聴衆の集中力は目に見えて低下します。長々とディスカッションにつき合ってきたほぼ全員が「早く終わればいいのに・・・」と思っていることをご存じないのでしょうか。
要するに聞き手のことを考えることなく自己満足でやっている結果なのでしょうね。こんなところにも顧客志向が求められるのだと思いますよ。
ストラテジック カンパニー
間違いあるんじゃないの?
犯罪の報道を見ていて、いつも不思議に思うことがあります。容疑者が逮捕されて、容疑を認めた供述というのが、判で押したように常に「間違いありません」なのです。そんなことあるのでしょうか。
警察にも検察にも、幸か不幸かこれまであまり縁がなかったので全く無知なのですが、たとえば、
「おまえがやったのに間違いないな!」
「はあ」
といったやり取りが調書になると「間違いありません」になるのでしょうか。それとも、
「間違いなかったら、間違いないと言え」
と強要されるのでしょうか。
どちらにしても、それを警察がそのまま発表して、報道機関がまたそのまま報道する。それ、なんか「間違いある」ような気がします。
(写真は本文と関係ありません)
広報に何ができるのか?
東日本大震災後の約1年間は体調がすぐれませんでした。中でも胃部の不快感が続き、胃薬を飲み続けましたが、その後に受けた内視鏡検査では異常は見つからず、ピロリ菌も陰性でした。
震災後、多くの人たちがボランティアとして被災地に入りました。医療関係者は救護や救援に向かい、製薬会社は医薬品を提供し、医療機器会社は医療機器を送り、シェフは料理道具一式とともに被災地に入って暖かい食事を提供しました。元気な人は復旧作業や放射能除染に力を貸しました。
周囲には、親しい芸能関係者を伴って救援物資とともに何度も現地に足を運んだ人もいました。テレビで知られている有名人が行けば、被災者のみなさんに対し何らかの励ましにはなるかもしれません。それを否定するものではありませんが、心は動きませんでした。少しばかりの義援金も送りましたが、どこか偽善的な気分が残っただけでした。
いまは忘れられた存在となってしまったフランスの哲学者J.P.サルトルは半世紀前、「飢えた子の前で文学に何ができるのか」と問いました。結論は覚えていません。容易に結論が見つかる問いでもありません。では、被災者のみなさんを前にして広報に何ができるのでしょうか。考え続けましたが、やはり答えは見つかりませんでした。これから先も見つかりそうにありません。胃の調子は知らぬうちに回復しました。
東京は特殊だ
Facebook経由で知ったYahooによる分析なのですが、都道府県の中で東京は飛び抜けた電車社会であって、一人平均年800回以上も電車に乗っているのだそうです。それに次ぐのが神奈川や大阪でそれでも400回くらい。千葉、京都、埼玉、兵庫、奈良などがそれに続きますが300~100回といったところでしょうか(グラフから読みとっています)。その他の道府県はずっと少なく、それに反比例してクルマによる通勤・通学率が高くなっています。
その他のデータによっても、東京の特異性は際立っているということです。
これは重要な指摘ですね。私たち東京で生活し東京で働いていると、どうしても自分の周囲の環境が普遍的だと思い込んでしまうところがあります。そのような視点で広報活動をすると失敗するのは明らかです。
米国の人たちも、米国内の状況が世界標準だと考えているという話があります。大統領選のたびにそれを思い出させられますが、東京人も心しなければならないですね。
http://docs.yahoo.co.jp/info/bigdata/special/2016/01/?utm_content=bufferd5345&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer
あの人ならきっと・・・
ときどきですが、知恵を貸してほしいという相談が持ち込まれます。広報のビジネスではありません。以前の勤め先でお世話になった方だったり、個人的な関係で知り合った人だったりが、カッコよく言えば問題解決の糸口を教えてほしい、より正確に表現すれば「あいつは、役に立たないつまらんことばかり知っているから、ひょっとすると何か手がかりが得られるのではないか?」ということでお出でになります。
どちらにしても買いかぶりもよいところで、よい知恵などおいそれとは浮かびません。そのようなときには、そのテーマに関して詳しそうな人が知り合いの中にいなかったかなあ、と考えることにしています。直接は存じ上げない専門家であっても、その人と関係の深い知人はいないかなあと頭を巡らせます。
そのようにしてご紹介した方からの「専門家にたいへんよいアドバイスをいただくことができた」とのメッセージが先ほどスマホの留守電に入っていました。肩の荷を降ろしたような、ちょっとよい気分です。