「お聞きします」という表現は日本語としていかがなものか、ということになっております。
上はwordにATOKで「おきききする」と打ち込んで変換をかけたところですが、他の表現に言い替えろという指示が出て来ます。
「先生にお聞きしますと」
といった表現は誤用。
「先生にうかがいますと」
が本来の日本語の敬語表現。
ところが、いまは「お聞きします」ばかりで「うかがいます」なんてほとんど耳にしません。テレビを見ていると出演者たちが、アナウンサーを含めてみな「お聞きします」、「お聞きします」と何の疑いもなく連発しています。ディレクターがチェックを入れないのかしら、とも思うのですが、若いディレクターに「お聞きして」もまともな返答が返って来るとも思えません。
実は筆者もときどき口にしてしまいますので威張れたものではありません。それではいけないとずいぶん前に反省して、以後、意識的に「うかがいます」と言うように心がけています。何年間も意識し続けていると、90%くらいの割合で「うかがいます」になっているかと思います。だから意識すれば修正可能ではありますが多勢に無勢。すでにすっかり「お聞きします」の世になっています。
たとえばメディアトレーニングなどで、年配の社長さんが「お聞きします」とおっしゃったとき、修正をお願いすべきかどうか大いに迷います。信頼を得ようと思えば「うかがいます」、若さを演出したいなら「お聞きします」かなあ。よくわかりません。
開け植物園
COVID-19の流行がオミクロンと呼ばれる変異型の登場でまたまたひどいことになってきました。この2年間にわたる知見の積み重ねで、少しは有効かつ合理的な対策が取れるのかと考えていましたが、そうでもないようです。
わが国政府もトップが変わって、前任者の轍を踏まないようにと苦労しているようですが感染者は増えるばかり。英国も米国も現時点では感染者数のピークアウトが見えていないようですから、どこの国も同じようなものなのでしょう。
まん延防止等なんとか、というのが多くの都道府県に出されました。それによって東京都の場合、都立庭園や神代植物公園などが休園となってしまいました。都立公園には入れるようですが、昨年の緊急事態のときはそれらも立入禁止となっていました。
これが疑問なんです。
素人考えではありますが、密閉した室内にも大人数の会食(バーベキューは禁止)にも当たらない開放的な場こそ、こういうときには開放した方がよいのではないでしょうか。庭園や植物園を休園する必要がどこにあるんだ、と思います。
1年に1回行くか行かないかの神代植物公園に、こうなると無性に行きたくなるのは、生来の根性曲りだからでしょうか。
なかなか
日常的で何気ない言葉が、ある人には特別な感情や思いを喚起させるといったことがあるようです。過去の体験、エピソードなどによって一度色づけされてしまった言葉は、もう何気ない言葉などではなくなってしまいます。私にとっては、「なかなか」という言葉がその一つ。若き日、先輩社員の口癖でした。その人は、
「あの部長はなかなかだからねえ」
というふうに使っていました。
その時の口調をいまでも鮮明に思い出しますが、なんだかわかるようでわからない。想像するに、「なかなか手強い」とか「なかなか言うことを聞いてもらえない」といった含意のようで、そこに「ちょっと普通ではない」といったニュアンスが加わっているようにも感じられました。言っている本人もどう表現してよいのかわからずに「なかなか」を使っていたのかもしれません。あるいは明確に表現するのをはばかっていたのかもしれません。
辞書の「なかなか」の項には次のように書かれています。
1.なかほど。半途。中途。
2.不徹底・不十分な状態、もしくは過度の状態が、逆に不満をかき立てること。
3.逆の状況や意味をもたらすこと。かえって。
4.かなりの程度であるさま。ずいぶん。相当に。「―のものだ」
5.(否定の語を伴う)簡単には。すぐには。
狂言で太郎冠者が「なかなか」と返事をすると、打ち消す意味で「とてもそうはなりません」だったり、「いかにもその通り」といった意味になるそうです。どうにも中途半端な表現ですね。
何ごともなかなかのまま年暮るる
よいお年を。
Facebookと天然うなぎ
47都道府県のうち足を踏み入れていない県が2つ残っていました。高知県と大分県。海外へ行ける機会は今後あるかどうかわからないので、新型コロナがスキを見せている間に、こちらの方をつぶそうと思い立ち、高知県に行ってきました。
ここ何週間か、高知ばかりでなく四国4県で新型コロナの感染者ゼロが続いています。
新型コロナウイルスはヒト*に感染しなければ存在できない⇒高知では感染者がゼロ⇒高知には新型コロナウイルスは存在しない、という怪しげな三段論法で安全に旅行ができると信じることにしました。*ネコにも感染するそうです。
高知へ行ったら訪れてみたいと思っていたのは四万十川です。鮎の友釣りを趣味としていた若いとき、四万十川で鮎を釣るのが夢でしたが叶いませんでした。いまとなっては友釣りよりもうなぎです。四万十川でとれた(たぶん)天然うなぎの蒲焼きが食べられるという店へ直行しました。
帰京してから、この写真をFacebookのうなぎ好きのグループに投稿してみました。すると、あれよあれよという間に380もの「いいね」がつきました。これまでFacebookでいただいた「いいね」の最多数です。うなぎ好きの人たちにとって、四万十川の天然うなぎの蒲焼きは一つの憧れなのでしょう。
では、その味はいかがであったか。それはこれから四万十川に訪れる方々のお楽しみとしておきましょう。ちなみに、ことわざに「名物にうまいものなし」というのがありますが、写真とは関係ありません。
自分から見つけないと・・・
写真のセンス、天性なのか努力の賜なのかわかりませんが、確かにセンスのよい人がいます。いい瞬間を撮るとか、いい構図で撮るとか、面白いものを見つけて撮るとか、そのようなことを全部ひっくるめてのセンスなんでしょう。
知り合いのアマチュアカメラマンは花火の写真にかけては名人です。独自の技巧を駆使した色鮮やかな花火の写真は、展覧会などでも多くの人たちを魅了します。新型コロナで各地の花火大会が中止になると、ダイヤモンド富士なるものに挑戦し始めました。富士山の真上に太陽が昇る、あるいは沈む瞬間を撮ろうというものです。さまざまな場所と方角からその一瞬を狙います。なかなかに美しい。ところがその人、街角の状景などを撮るとからきしダメでなんです。大量にシャッターを切りますが、ほとんどがゴミです。どうしてそうなるのか、と考えてようやく一つの結論に達しました。
花火もダイヤモンド富士もそれ自体が美しい。そこに技術は必要だとしても、美しさは向こうからやって来ます。
街角のスナップ写真はそうは行きません。それほど美しくも面白くもない風景の中から、興味をひく一瞬や面白い状景を、自分で見つけ出さなければなりません。
広報の仕事にも同じような問題がありそうです。世の中が沸き立つ要素をもともと持っている製品やテーマがある一方、これはまいった、と言いたくなるような地味で面白みの少ないテーマもあります。それをどのように広報活動に結びつけたらよいのか。「面白さ」はいつも向こうからやってくるわけではありません。地味なテーマや専門的な製品の中に面白さや素晴らしさや社会の利益になるポイントを自分たちで見つけ出す。これですよね、大切なのは。
ネクタイ異聞
ある中堅メーカーが全社会議をオンラインで開催しました。そのとき社員が戸惑ったのはどういう服装で参加するかだったそうです。昨年来、自宅勤務が中心になっているその会社では、カジュアルな服装での自宅仕事がすっかり根づいていました。しかし会長、社長、役員が全員出席する全社会議となるとまた話は別です。
ある社員は悩んだ末、テレワークスーツでもパジャマスーツでもなく、いつものスーツにネクタイ姿でwebカメラに対しました。画面で他の社員を見ると全員同様なスタイルだったとか。下がジーンズだったかどうかまではわかりませんが。
オーナーである老会長は真夏を除いて常にネクタイにスーツまたは濃いめのジャケット姿を崩しません。頂上がそうなら九合目以下もそれに合わせるのが、日本企業というものです。
ここ10年来、外資系やベンチャー企業の社員はオフィスに出社するときもカジュアルな服装で、ネクタイ姿はほとんど見かけなくなりました。国内企業でも通年ノーネクタイという会社が増えてきているようです。もちろん営業の方はスーツが多いでしょうし、時と場合によっては内勤社員もスーツを着用するのだろうとは思いますが。
数年前、フランスに観光旅行に出かけました。知人へのお土産にネクタイを買おうとパリの百貨店を2軒ほど探し回ったのですが、ついにcravates売場を見つけることができませんでした。シャンゼリゼ通りを散歩したときも、スーツにネクタイ姿の紳士にはたった一人しか遭遇しませんでした。そのような流れが、COVID-19の流行を経て日本でもさらに強まっているのではないかと推測します。
帰国するとき、シャルル・ド・ゴール空港の免税ショップの中に大きなネクタイショップを発見しました。ネクタイはお土産としてのみ生き残っているのかもしれないなあ、と少々驚きました。
いや、買いませんでしたよ。ブランド品とはいえお土産品としてのネクタイは。
わかる人にはわかる
写真は今日の朝日新聞の記事です。いま放送中のNHK「連続テレビ小説」の今週のあらすじが書いてあるのですが、読んでもさっぱりわかりません。毎朝見ていて登場人物やら筋の展開を把握している視聴者にはたぶん理解できるのでしょう。
一部の人だけしかわからない記事を全国紙が掲載してよいのか、という議論はさて置き、このような「わかる人にはわかる。わからない人にはわからない」現象は、あちこちで見かけます。
産業系の新聞や業界紙などの記事にも多いですし、業界系のサイトなども門外漢にはさっぱりです。新聞系のメディアで育った人たちは、中学生でもわかる記事を書けとたたき込まれたそうです。いまもそのような教育がされているのだろうと思いますが、少しゆるんでいるところもあるのかな。「わかる人にわかればいいや」というのも、やむを得ないところがあります。全面否定する気はありません。
広報の仕事でプレスリリースを書くときも、似たような戸惑いを感じることがあります。BtoB企業のリリースで、業界関係のメディアだけに配布するというのであれば、読み手の基礎知識にすがって、その人たちだけが理解できる内容のリリースでも許されるのかなとも考えます。そのあたりが迷うところです。
企業にいたとき、IT系の専門誌からシステム更新について取材の申込みを受けました。対応するのはシステム部長です。その取材に立ち会ったら、二人の会話がまるで理解できません。外国語を聞いているようでした。掲載された記事も、読者のどのような興味と関心に応えようとする記事なのか、ほとんど理解できませんでした。
ある関西系の芸人さんのYouTubeを見ていたら、別の芸人さんと掛け合いトークをやっていました。二人は古くから昵懇の間柄のようで、内輪話が次から次へ出て来るのですが、その中でやり玉に挙げられている芸能人たちを知らないのでちっとも笑えませんでした。
「わからない」は「面白くない」に通じる。当たり前のことだろうと思いますが。
他山の石
発車間際のバスに乗り込んだら座席はほぼ埋まっていました。やむを得ず運転席の真後ろの高い座席によじ登りました。
その目の前に掲げられていたのが写真の掲示です。内容を以下に書き写します。行番号をふってみました。
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1)私たちは社会基盤としての役割を果たすため、バスの運行を続けています。
2)このバスを運転している乗務員にも家族がいます。
3)バスをご利用のお客様は、新型コロナウィルス感染症まん延防止のため、必ずマスクの着用をお願いいたします。
4)○○バス株式会社 ○○営業所
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さて、どうでしょう。言いたいことはわかります。でもちょっと違和感を覚えませんか。
行ごとに読み解いて行くと、
1)は納得です。ご苦労様でございます。誠にありがたいことです。でもバス会社は営利企業であって慈善事業ではありません。乗車賃を払っています。いまの世の中、乗車賃収入だけでは運行を維持できず、公的な補助金やら支援金やらで補填されているのかもしれません。その金は税金で支払われているはずです。
2)もごもっとも。しかし、乗務員ばかりでなく乗客にも家族を持つ人はいますよ。その点に関しては、乗務員も乗客も条件はまったく変わりません。
3)のご注意は当然です。
さらに1)と2)と3)の間に論理的なつながりがありません。社会基盤としての役割のためにバスを運行していることと、運転手さんに家族がいることの間には何の因果関係もありません。乗務員に家族がいることとマスク着用のお願いとの間にも論理の飛躍があります。
繰り返しますが、バス会社の言いたいことはよくわかります。こんなつたないお願い文で訴えるのは、それだけ切実に感じておられるのかもしれません。
広報の仕事でもいろいろなお願いやら謝罪やらの文章を作成する機会があります。そんなとき、他山の石としてこのバス会社の「お願い」を思い出すことにいたしましょう。
広報ってブルシット・ジョブなの?
Bullshit Jobsという用語を知ったのは最近のことです。訳書の題名によれば、「クソどうでもいい仕事」といういささか品のない訳語になっています。
お高い書籍なので読んではいませんが、Wikiから又引きすると「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」と何やら難しいことが書いてあります。
「こんな仕事、なんのためにやってるの? 意味ないじゃん」
と思いながら作業を続けたことは、会社員時代に何度も経験しました。どうもそういうことを指しているらしい。
そのような仕事ばかりする職業として、ホワイトカラーの仕事の多くをはじめ、弁護士、コンサルタント、広告代理店なども意味のない仕事なのだそうです。
就職を控えた学生のとき、ある大手広告代理店への大学推薦がもらえることになりましたが、すぐに辞退してしまいました。「それはもったいない」とその時もその後も多くの人たちから言われました。しかし、いずれ日本に革命が起きたら広告代理店などなくなってしまうのではないか、と真剣に考えていましたからちっとも惜しいとは思いませんでした。笑ってください。その程度の社会認識しか持ち合わせていなかったのですから。
それはさて置き、広報コンサルタントとしては、自分の仕事がブルシット・ジョブだと名指しされているわけで心穏やかではありません。しかも、
「それが無意味だってうすうす自覚しているでしょう? でもそれを取り繕っていますよね。それこそがブルシット・ジョブなんですよ」
と著者はこちらが考えるようなことを先回りして指摘しているらしい。
白状すればご指摘の通り〈無駄なことだよなあ〉と思うこともやっています。世の中の役に立っているのかなあと疑問を持つこともあります。
一方で、こんなよいこと(もの)は広く世の中に知ってもらう方がいいよなあ、と思いながら仕事をしていることも少なくありません。
そんなことを言うと、「ほら取り繕っている」と言われてしまいそうですが・・・。
人事評価のショーウインドウ
企業は社員を評価するもの・・・なのかどうか知りませんが、まあどこでもやっています。会社員だったときは、自分の評価がずいぶん気になったものです。当然ですね。それが給料に反映するわけですから。
いろいろな社員評価の方法やツールがつくられ、MBAでも人事の専門家が養成されていますが、真に誰もが納得できる人事評価法が開発されたという話は聞いたことがありません。
それでも何となく社内での評価はコンセンサスができて行くもので、あの人はそろそろ昇進してもいいよねという雰囲気が醸成されてくる。反対に「なんでェ?」という人事もしばしば起こります。世界中どこでも人事は人間くさい要素で決められて行くものらしい。
社内にいれば、その人間くさい部分がある程度見えることがありますが、社外からそれをうかがい知ることはできません。あの人がエラくなった、あの人が異動になった、ということはわかりますが、どのような経緯なのか、異動先でどんな仕事を任せられているのかなどは、外からはわからないのがふつうです。
ところがですよ、それがなんとなくわかっちゃう組織があることに気がづきました。
NHKです。あそこのアナウンサーのみなさんが、どんな番組でどんな役割を担当させられているのかに注意していると、それぞれの社内評価がわかるような気がしませんか。
なるほどこの人は上手だなあとか、華があるなあとか感じることがあるます。また地方へ行くと、こんなアナウンサーさんがNHKにいたんだなあ、と思うこともあります。具体的な例は出しません。しかして、これは職員としてはかなり厳しい環境ではないでしょうか。そう考えると、テレビを見ているこちらも少々つらくなってしまいますが。