アップルのiPhone5が発売されたものの、それに使われている新しい地図(正確にはiOS6の地図)が不正確だと批判され、CEOが謝罪する騒ぎになっています。弊社のオフィスの周辺も極めて大雑把にしか表示されず、そこにどういう基準で選ばれたのか不明な立ち食いそば屋などの飲食店がプロットされているなど、「こりゃあ使えないわ」としか言いようがない代物です。
アップルともあろうものがどうしてこんな地図をノーチェックで使ってしまったのか、不思議ではありますが、私が興味を持ったのは別の点です。
この地図は鉄道を軽視しているのです。東京で仕事をしている私たちは、地下鉄の路線と駅とその出口の位置を理解していないと甚だ不便なのですが、アップルの地図ではそれが極めてわかりにくい。徒歩や車で移動しているときは山手線や中央線、私鉄の路線やガードなどをランドマークにしていますが、それも明確に表示されません。
技術的な問題はわからないものの、日本人がつくった地図ではないのだろうと疑っております。日本人なら鉄道と駅をもっと大切にするのではないでしょうか。Googleの日本地図は日本の会社が協力して作成していると日経のWEBに書かれていました。
現地の人のビヘービアや感性に十分な配慮をしないとこういうことになる、というこれは一つの戒めではないかと思うのです。〈kimi〉
イレコマナイ
facebookの旗色がにわかに悪くなってきました。株価もさることながら、広報関係者からも期待したほどでもないといった声が聞こえてくるようになりました。
エジプトの政変がfacebookで起こったなどと聞いて、あわててアカウントをとったことをいまさら白状しても始まりませんが、当時の世評ほどのご利益が感じられなかった者としては、「やっぱりねえ」などと一人鏡に向かってドヤ顔をしております。
参加者数が日本で1000万人を越えたと報じられたのは昨年ですから、いまはもっと増えているのでしょう。すごい数字ですが、私の周囲でfacebookを仕事に使っている人はほとんどいません。
「友達」であるジャーナリストやら某県知事やら昔の部下やら数十人の書き込みを毎日拝見していますが、今日は出張なのか、あの人は被災地の出身だったのか、転んでケガをしたんだ、毎日ジョギングをしているんだ、東京マラソンに当たったのか、いまフランスに行っているんだ等々、面白くは読みますが、何かの役に立つという情報はほとんどありません。
ほぼ1年前でしたか、ソーシャルメディアをテーマにしたシンポジウムを聞いていたら、mailなんかもう必要ない、すべてのコミュニケーションがfacebookで可能になると断言するパネリストがいました。お仲間内ではそうなのかもしれませんが、その方の視界の外ではそのようにはなりそうにありません。
新しいIT技術が生まれると、これを使わないヤツはアホだというばかりなことを言い立てる人が出て来ます。いまは昔、バブル時代には金を借りないヤツはバカだと言う人が実際にいました。広報を仕事をしている人にとって、時の流行に乗り遅れるわけには行きませんが、何事もイレコミ過ぎないようにしなくちゃね。〈kimi〉
「デジタル人間」は存在する
アナログ人間とデジタル人間。最近あまり聞かなくなりました。アナログ人間は分厚い広辞苑をパラパラめくり、デジタル人間はパソコンの広辞苑を引くといった意味だったかと記憶します。アナログ人間=時代遅れの人間、デジタル人間=先端の人間と言いたかったのでしょう。そんなことはあり得ない、というのがデジタルが普及した今日の常識というものです。
しかし、アナログ人間とデジタル人間は厳然と存在すると思うのです。
アナログ時計は連続して針が動いて行きます。それに対して、デジタル時計は数字と数字が個々に独立しています。このアナロジーで周囲の人たちを見て行くと・・・
デジタル人間は変更に不寛容:プリントアウトしたスケジュール表に1分の変更が生じると、修正した上で改めてプリントアウトしないと気がすまない。「そんなものは赤のボールペンで訂正しておけばいいじゃないか」などと言うのはアナログ人間です。
デジタル人間は誤りに不寛容:「ネダ首相がね」と言い間違えると、「誰ですかネダ首相って?」と聞き返す。「ノダ首相のことでしょ」とか「ネタニヤフ首相のことですか?」と類推して修正するのはアナログ人間です。
デジタル人間はあいまいに不寛容:「それじゃ、午後イチってことで」と言うと、「午後1時のことですね」と確認する。「そうではなくて午後一番」と言い直しても不思議そうな顔をするばかり。午後イチで通じる人はアナログ人間です。
お判りのように、ここで言うデジタル人間とは、これまで頭が固いとか融通が利かないなどと陰口を叩かれていた人たちに一部重なります。こういう人たちに「あなたはデジタル人間だね」と言って差し上げれば、きっと世の中すべて丸く収まるというものではないでしょうか。〈kimi〉
「田中でございます」
最近、弊社のホームページで公開しているメールアドレスに「田中でございます」とか「佐藤からのご連絡」といった件名のメールがしばしば入って来ます。開いて見ると、ただの広告メールです。「資金調達のご用命は××へ」とか「△△なら電話代が8万円お得」などというタイトルをつけたのでは、開く前に削除されてしまうので、何はともあれメールを開かせようという魂胆なのでしょう。その姑息な作戦につい乗って、開封してしまうのがくやしい。こういう会社は、それだけで信用しないことにしております。
テレマーケティングの電話もたびたびかかってきます。これは、〈電話が掛かってきたら何はさておき受話器をとる〉という、ベルさんによる電話機の発明以来染みついた人類共通の習性を悪用したもので、いったん電話に出てしまうと、切るのに一苦労させられます。まんまと乗せられて聞きたくもない話に無駄な時間をとられるのですから、これも気に入りません。
毎日のようにファックスに入ってくる広告も、弊社のコピー用紙を勝手に使われているわけですから、どう考えても間尺に合いません。
全く無視するのが合理性というものなのですが、1000分の1くらいの確率で有用な情報があるのも事実で、それを逃すのも惜しいような気がします。そのような心理にまたまたつけこむのが、このようなプロモーションなんですねえ。〈kimi〉
謝れない
突然堅いものが落ちてきて、私の手に当たって床に転がりました。今朝の電車の中の出来事です。
強い痛みを感じて見上げると、前に立っている30代の男性が軽く会釈をしました。網棚に乗せたトートバッグから携帯電話が転がり出たようです。「痛いよ」と訴えると、再びかすかに頭を下げて「すいません」。口の中でモゴモゴと言いました。あまり腹も立たなかったのですが、当たったところに小さな内出血を起こって紫色に変色し始めました。「ほら、色が変わって来た」と静かに指摘したにもかかわらず、男は何の反応も示しません。
やがて次の駅に電車が到着しました。男は棚のトートバッグをつかんで下車して行きました。行方を目で追ったら、階段へは向かわず待ち合い室へ入って行きました。
「被害者」の前に立っているのはどうにも居心地が悪く、一電車遅らせることにしたのだと見ました。
「あっ、大丈夫ですか。ゴメンナサイ。おケガはありませんか。申し訳ありません。駅員さんを呼びましょうか」と、少々大げさなほどに心配してくれる人もいます。それもときにはしつこく感じられたりするのですが、きちっと謝ってさえくれれば、「ああ、いいですよ。大したことありません」と私も応じたでしょう。それなら一電車遅らせる必要もなかったはずです。
謝り慣れていない人にとって、謝るという行為はとても難しいことであるようです。
これは企業も同じことです。謝り慣れていない企業は、電力会社を例に挙げるまでもなく、謝るのがヘタクソです。ある医療機器会社の人は、たびたび製品の不具合が発生するので、すっかり謝罪に慣れてしまったと言っていました。どちらがよいとも言えませんが、しっかり謝れば社会の怒りがいくらかは和らぐ可能性があります。少なくとも、その企業に対する見方は大きく変わり、その被害者や社会の対応にも変化が生ずるだろうとは思うのですが。〈kimi〉
これが翌日の状態。痛みはありません。
言い訳から主張へ
大津市の中学校で生徒が自殺した事件。亡くなった生徒の気持ちを思いやると、いたたまれないような気持にさせられます。真相はまだ十分明らかになっていませんが、教育委員会に対するメディアの批判は日を追うごとに高まっています。
教育委員会の会見は下手の見本のようなものですが、上手いか下手かといった次元以前に、この組織がどのような理念のもとに、どのように運営されているのか、つまりガバナンスがどうなっているのか、首をかしげざるを得ません。
毎日のようにメディア側から記者会見を要求されて、教育委員会の人たちも当惑していることは想像できます。それが場当たり的な対応になって現れているように見えます。うそとは言いませんが、言い訳に言い訳を重ねると必ずボロが出る。そのボロを隠すためにまた言い訳をせざるを得ない羽目になって悪循環に陥ります。これは広報の専門家でなくてもわかることです。危機に直面したとき、あってはならないことながら、言い訳をせざるを得ないケースも、現実にはあり得ます。そのようなときにも、基本となるスタンスをしっかり固めておけば、「言い訳」を「主張」に変えることも不可能ではありません。そこはまさに広報の専門家の出番です。〈kimi〉
代替エネルギー
代替エネルギーという用語を3.11以来よく目にするようになりました。Alternative energyの直訳なのでしょうが、なにか違和感を感じてしまいます。
終戦直後に使われた「代用食」は、白米に代わる主食という意味です。食糧事情が悪かった当時は、トウモロコシ粉とかコウリャン粉などを指してそう呼んでいたのでしょうが、そこには白米こそが主食であって、一時的にその代用で我慢しているというニュアンスが感じられます。いつかは白米に戻りたい、という願望が反映されているのでしょう。
「代替エネルギー」には、化石燃料や原子力こそが主たるエネルギーであって、その他はその「代替」である、という意図的な過小評価が込められているように思えます。
さて、気がつけばいまや日本人は白米がなくても平気になってしまいました。三食カップラーメンというのは感心しませんが、そば、うどん、ラーメン、つけ麺、パスタ、ペストリー、サンドウィッチ、スープ春雨、シリアル・・・たまには白米もいいよね、などと言う人もいます。それなら代替エネルギーだって、気がつけばエネルギー源の主流になっていた、という時代が来るのかもしれません。
と、こんな堅いことを書くつもりではありませんでした。
電車から毎日、ビルの中でランニングマシンを使っている人たちが見えます。エアロバイクで汗を流している人たちもいます。これらに使われるエネルギーがいかにももったいないような気がしてきたのです。これをエネルギーとして利用すれば、まさに再生可能エネルギーになります。走りながらベルトを回して発電する。エアロバイクにも発電機をつなぐ。そんな発電装置をアスレチッククラブばかりでなく、あちこちの公園や広場に備え付け、時間がある人は、ちょっとそこで汗を流す、と同時に発電をする。運動不足の解消と発電の一石二鳥になります。荒唐無稽でしょうか。しかし200年ほど前まで、ヨーロッパでは帆船とともにオールで漕ぐガレー船が実用に使われていたのです。日本にだって人力車や輪タクがありました。マンパワーを過小評価してはいけません。〈kimi〉
雑魚客にも
京都には、住んだことはないものの学生時代から何かと縁が続いて、これまで100回近く訪れています。ということは、京都のホテルに100泊以上は泊まっていることになります。
宿泊料が安いとか、京都駅に近いとか、酔っ払ってもすぐに戻れる繁華街の真ん中であるとか、利用者を増やしたいからと頼まれた公的施設とか、その時々の目的やフトコロ具合等に合わせて宿泊先を選んで来ましたが、近頃あるホテルが気に入って、しばしばそこを利用するようになりました。
部屋は広く設備もよいのですが宿泊料は安くありません。繁華街からは少々離れています。地下鉄の駅から歩いて15分はかかります。悪条件がいろいろあるにもかかわらず、そこを使うのは理由があるからです。
タクシーをホテルにつけると、ベルキャプテンがドアを開けてくれます。シティホテルなら当たり前のサービスですが、大企業の経営者や政治家などへは極めて慇懃なのに、私のようなその他大勢の、いわば「雑魚」の客に対しては、形式的でおざなりな動作ですますホテルが多い中、ここはちょっと違うのです。雑魚客であっても、毎回かける言葉が異なるのです。天候や時間、客の年齢や性別、チェックインなのか外出からの帰りなのか、荷物が多いのか少ないのか、そのような状況を一瞬に判断して適切な一言をかけているようです。これはできそうでできないことです。
ロビーに入ると、ホテルマンたちの目配りが行き届いていて、それぞれ「お帰りなさい」とか「いらっしゃいませ」と挨拶をします。それがちっともマニュアルっぽくありません。トラブルが生じても、一生懸命解決に努力してくれるので腹が立ちません。日本語が上手くない外国人女性ポーターを含めて、このような客あしらいが徹底しています。
これはお客様を大切にすることが客を増やすという、スカイマークとは対極の姿勢です。
誠に素晴らしいのですが、清潔なベッドさえ用意されていれば十分、といった基準でホテルを選ばざるを得ないこちらのフトコロ状態が常態化しつつあるが、少々残念です。〈kimi〉
空にもタメ口
スカイマークの「サービスコンセプト」が話題になっています。責任を押しつけるなと消費生活センターがクレームを申し入れたということですが、そんなことは些末な問題。顧客重視経営をかなぐり捨てた、なんとも奇妙な宣言文です。
その文中に「より安全に、より安く」とありますが、これまでのビジネスの常識では、顧客を大切にすることの延長線上に「安全」があると考えてきたはずで、客を荷物のように考える会社が本当に安全を守れるのか、はなはだ疑問です。「安全はほどほどに、より安く」と言う方がむしろ論理的だし、誠実ささえ感られるかもしれません。お客は減るでしょうけど。
それはそれとして、この文書にこんなセンテンスがあります。
「お客様に対しては従来の航空会社の客室乗務員のような丁寧な言葉使いを当社客室乗務員に義務付けておりません。客室乗務員の裁量に任せております」
丁寧でない言葉遣いってどんなんでしょう。
「オイ、そこのオバチャン。早く席に座れよ。後の客が入れねえじゃねえか」
なんて、言うんでしょうか。乗務員の裁量に任されているんですから、これでも問題ないわけです。
80年代のことだったでしょうか。渋谷のパルコを見学していたら、店員のオネエさんが、
「いいよ、これ。すっごく似合ってるう」
とお客さんに言っているのを聞いて、すっ魂消たことがあります。それまでの小売店の慣習なら、
「これはとてもお似合いですわ」
です。店員が客にタメ口をたたく時代に、そのときからなりました。
これは顧客軽視ということではなさそうです。若い女性である顧客と同じ目線で、同じマインドで接客しよう。つまり顧客により近づこうということだろうとも解釈できます。そう考えれば、客室乗務員のタメ口もあながち否定できないのかもしれませんね。
「飛行機がさっきから揺れてるけど、大丈夫よ。落っこちないからさあ」
こんなアナウンスが当たり前になるんでしょうね、きっと。〈kimi〉
お尻だけはふいてくれ
久々にブログを更新するというのに、はなはだ尾籠なタイトルで申しわけありません。
私の友人知人の中にお尻をふかない人がいるのです。もちろんトイレでお尻をふかないということではありません(注:ふいているという確証もないのですが)。
例を挙げてみましょう。
ある人は、私に本を書かないかと持ちかけてきました。古くからの友人であり出版社のエライ人でもあったので、企画を考えて手渡しました。それから10年ほども経つというのに、採用なのかボツなのか、私は何も告げられておりません。もちろんボツには違いないのですが、その後も何度か顔を合わせる機会があったにもかかわらず、まったくの知らんぷりです。
またある人は、ある企業が直面したやっかいな問題のアドバイザーになってほしいと依頼して来ました。社会的地位の高い方でもあるし、その企業の社長に話を通すということなので、それなりに下調べをして待機していましたが、それから3年、まったく何の音沙汰もありません。その間何度かお会いしてはいるのですが、その話題には一切触れません。ちなみにやっかいな問題は、その企業に好ましくない結果で収束したようです。
自分から持ちかけた話の結末をなぜつけないのでしょう。企画がボツになったとか、企業側が難色を示したというような話しにくい話をするには小心すぎる人たちなのか、それとも単なる脳天気なのか、あるいはまだほかに理由があるのか…。
なにはともあれ、お尻だけはちゃんとふいてもらいたいものです。〈kimi〉