え~、なんてわざとらしく書き出したのは、なんとなく言いにくいというか書きにくいからです。そのわけは、このブログをFacebookの私の”ニュースフィード”という欄に自動的に転送する設定にしてしまったからです。うまく連動するかなあ、というおっかなびっくりな気分もあるし、「友達」ということになっている方々に読まれることに対する緊張もある。
なまけなまけ書いているココノッツブログは、どのくらいの方々から読まれているのかよくわかりません。もちろんログ解析レポートには数字が打ち出されているのですが、世間一般のブログに比べればかなり少ないのではないかと思います。
それなのになぜ書いているか。理由はいろいろあるんですが、自分自身の文章トレーニングの場、というのが実は大きな部分を占めています。たとえばブログの文章とプレスリリースの文章とは大きく異なりますが、それでも文章を書くという行為を続けていないと筆が(キータッチが)錆び付きます。ブログを書きながら、密かにレトリックの練習をしたりもしております。
そんな練習につき合っていられるか、と下心はすぐに見透かされ、それが読み手が少ない原因かもしれません。そんなエチュードをFacebookと連動させるなんて、恐れ多いことです。しばらくやってみて、続けるかどうか改めて考えることといたします。〈kimi〉
「間違いありません」
「担当者が不在でコメントできない」
都合の悪い取材を受けた企業の決まり文句です。実際にはどのように答えたのか知りませんが、新聞にはこのように書いてあります。担当者って、だれなんでしょうね。広報担当者かな。それだったら、「社長を出せ!」となるから、具体的な職名を出さないところがミソなんでしょう。
「訴状を見ていないのでコメントできません」
訴えられたときの逃げ口上。たしかに訴状が届くより先に取材を受けることが多いので、これはなかなかよく考えられたコメントであるとも言えます。「えっ、ウチが訴えられたの? で、向こうはなんて言ってるの? ああ、そりゃあ違うよ」なんて、記者から情報もらってペラペラ答えるわけには行きませんものね。
「判決を精査し、控訴の要否を検討する」
これは敗訴したときの紋切り型。検察もよく使います。判決直後では答えようがないのもたしかです。
「弁護士に一任している。答えることはありません」
というのもあります。
紋切り型のコメントというのは一般にはお薦めできませんが、時間稼ぎをしなければならないときや、実際にコメントのしようがないときなど、やむを得ないケースもあるでしょう。
新聞の社会面でよく見かけるコメントに
「仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった」
というのがあります。万引き犯の定型的自供ですが、どうも真実とは思えません。
「オイキミ。なんで万引きなんかしたんだ?」
「このところ会社で面白くないことが続いたもんで・・・」
「仕事のストレスがあったということだな」
「まあ、そんなところで・・・」
「それじゃ『仕事のストレスからむしゃくしゃしてやった』と調書に書いとくけど、それで間違いないな?」
「間違いありません」
容疑者、取り調べ側ともども、真実なんて考えれば考えるほど、またいくら追求してもわからないから、適当なところで手を打ちましょう、ということじゃないか。しかし、それでいいんでしょうか。
近頃、新聞やTVニュースでしばしばお目にかかるのが、この「間違いない」というフレーズです。「容疑者は、『自分がやったのに間違いない』としている」と結ばれている記事が少なくありません。警察発表をそのまま記事にしているのでしょうが、報道もまた適当なところで手を打っているわけです。〈kimi〉
先頭集団から5m
少し前にTwitterが話題になったと思ったら、昨年末の中東ジャスミン革命あたりからは、俄にFacebookが注目されるようになりました。
こう書くと、ITに熱心な方々から、いやもっと前から盛んに使っているよとお叱りを受けそうですが、日本の社会一般ではこのあたりが妥当な認識だろうと思います。
さて先日、そのようなソーシャルメディアをどのように広報に応用するか、といったテーマのセミナーに参加して来ました。それなりに参考にはなりましたが、ふと会場を見回して気づいてしまいました。ひょっとしてこの会場内の最年長者は私じゃないの? 広報の世界の方々は一般に若作りが多いので正確には判断できかねますが、三番以内であることはほぼ間違いなさそうでした。
同年代のビジネスマンたちの中に、メールは読むけど返事は出せないという人がいまも存在します。TwitterやFacebookにはついて行けないと、あきらめている人たちがほとんどです。一方で、はるかに年長にもかかわらず元気にTwitterでつぶやき続け、Facebookのニュースフィードに毎日書き続けている方もおられます。
どんどん進化するIT技術にキャッチアップし続けるのは、マラソンに似ています。先頭集団に遅れそうになって、もうダメだと思った瞬間から、あっという間に100m、200mと引き離されてしまいます。なんとか先頭集団の後方5mに食らいついている、というのがいまの私のポジションでしょうか。実に危うい。次の給水ポイントはまだかしら・・・そんなこと考えているようでは、途中棄権もあり得るかな。〈kimi〉
ラーメンフリーク
最近は嗜好が変わってきて、ほとんど興味を失っておりますが、かつてはかなりのラーメン好きでありました。その残滓がときたま頭をもたげることがあって、ある日突然、山梨県某市の極めてわかりにくい場所に存在するというラーメン屋へ行ってみたくなってしまいました。
食い物をおいしくいただくには空腹であることが絶対の条件。ちょうどよい時間に現地に到着するようカーナビゲーションをセットして午前10時30分かっきりに自宅を出発しました。
「このあたりです~」とカーナビが任務終了を宣言したのは、地方のなんでもない住宅地のド真ん中。こんなところにラーメン屋が成り立つのかなあ、と心配しつつ前進したり曲がったりバックしたりしているうち、ようやくその店を見つけたのはちょうど12時でした。カウンターのみ10席ほどの店内は満席で、店の前には3人組とカップル計5名が行列していました。行列ができる店が大嫌いな私ですが、1時間半もかけてやってきた以上は列ばないわけには行きません。30分待ってようやく入店することができました。
さて、不思議な光景に出会ったのはそれからです。行列をしていたときは一切会話を交わすことがなかった3人組とカップルが黙礼を交わしました。しかも3人組は先に入店していた客とも黙礼を交わしたではありませんか。そればかりではありません。5分後に私の後から入店した3人の中年女性は先の3人組に「ああ、こんにちは」と挨拶をしました。どうなっているのでしょう。私以外の客がすべて知り合いだなんて・・・これはもうカフカか安部公房の世界です。
地方の町のことだから、みんな顔見知りということはあり得ます。初めはそう思いました。しかし、彼らの会話を聞いていると、どうも違うようです。そこで思い当たりました。
彼らは東京から来たラーメンフリークたちではないか。有名店、評判店を食べ歩き、あちこちの店で出会ううちに顔見知りになってしまった・・・そのような結論に達したのでした。これは驚くべきことではありませんか。
日本のラーメンブームもかれこれ30年以上は続いているようで、こうなるとブームとも言えず、かと言って文化というほど立派なものとも思えず、なんと表現してよいやらわかりませんが、とにかくいまの日本には相当数のラーメンフリークが存在しています。彼らが次々に開店するラーメン屋に試食に訪れ、このような地方の店の経営も支えている。ラーメン店の市場規模は4,000億円以上とも言われていますが、彼らラーメンフリークたちによる部分は一体どのくらいあるのでしょう。
そうそう、その店のラーメンの味について書くのを忘れていました。少なくとも私は一回行っただけで十分満足いたしました。二度と訪れることはないでしょう。〈kimi〉
何を持ち出すか
福島第1原発事故の警戒区域で、一時帰宅が昨日ようやく始まりました。2時間という短時間の中で、それも防護服やマスクをつけての作業では、必要なものをすべて持ち出すことはさぞ困難だったでしょう。自分だったら、何を持ち出すだろうと考えたのですが、通帳や印鑑といった公的手続きに必要なものはともかく、それ以外で優先順位をつけるのはかなり難しい。悩みに悩んだ末に、結局つまらないものを持ってきてしまいそうな気がします。
新聞やテレビの報道によると、アルバムと位牌を持ち帰った方が多いようです。
アルバムは、70年代のテレビドラマ「岸辺のアルバム」以来、家族にとって大切なものという認識が広く共有されるようになりました。とくに自宅に帰れず避難されておられる方々にとって、家族の絆の証であるアルバムはよりかけがいのないものとなったことでしょう。
位牌については、持ち帰った方と花を供えて帰った方がおられたようです。宗教心というよりも、これも家族との絆の象徴と考えられます。どちらにしても、お位牌が無視しがたいものであることは間違いありません。位牌なんて、戒名を書いた木札に過ぎないという考え方もあり得るでしょう。お骨はお墓に埋葬してあると考えれば、持ち出すべきより重要なものがほかにあるかもしれません。
自分ならどうする。自宅の仏壇には、お目にかかる機会のなかったご先祖様も含めていくつものお位牌が祀られています。戦死したご先祖のもある。戦死ったって、第二次大戦ではありません。幕末の戊辰戦争です。それらの位牌を自分ならどうするか。
停電もなくなった東京で、そんな想像をいくら巡らせていても結論は出ません。しかし、いつになったら戻れるか、先の見通せない状況では、お位牌はやはり持ち出さなくてはならない重要アイテムなのだろうなあ、などとも考えました。
ここには日本人の信仰、考え方、心の動き、文化のありよう、人間関係、価値観・・・そんなものが残らず凝縮されています。このような日本人を理解できること。これこそ日本で広報の仕事をしている人に求められている最も大切な能力であると、これだけは確信できるのですが。〈kimi〉
お箸が足りないんですって
いま東北の被災地がどのような状態であるのか、テレビや新聞で報道されてはいるものの、東京にいては本当のところがわかりません。避難所には十分物資が届いているのかどうか・・・。一方で、支援物資として送られてきた大量の古着の処理に困っているという報道もあります。
そんな折り、避難所ではお箸がなくて困っているという話が飛び込んできました。又聞きの又聞きなので間違っているかもしれませんが、こういうことらしい。
避難所には割り箸はある。しかし数が足りない。そこで割り箸を洗って使っている。本来割り箸はシングルユースなので、何回も使っていると汚れてくる。また、日本の家庭では箸は個人使用。一人一人決まったものを使うのが習慣です。そういうことで、避難所におられるみなさんは箸がなくて困っているというわけです。意外なものでご不自由されているんですね。
そこでココノッツでは、この連休に石巻に支援に向かうグループにお箸を託すことにしました。
100均で仕入れた箸で恐縮ですが、お役に立てばうれしいです。〈kimi〉
広報パーソンに何ができるか
東日本大震災の被災地には多くのボランティアが訪れているようです。がれきの撤去を手伝う人、避難所でカレーをつくる人、被災者の心のケアをする臨床心理士、歌手、タレント、スポーツ選手、被災者のの話を聞くボランティアもいるそうです。体力のある人はそれだけで役に立つでしょうし、医師やコメディカルなどの資格を持っている人は歓迎されるでしょう。人気者はその人が現れるだけで喜んでもらえます。
それでは広報を仕事にしている人には何ができるのでしょう。たとえば私に何ができるかと考えたら、途方に暮れてしまいました。体力にはまったく自信がありません。現地のご迷惑になるばかりです。役立ちそうな資格や特技もありません。壁新聞つくりのお手伝いくらいはできそうですが、壁新聞は被災した地方紙の記者さんがすでにやっておられると聞きました。そんなわけで、何か手を貸したいと思いつつも歯がゆい思いをしております。
企業の広報担当者だったら何ができるでしょう。その専門性を活かそうと思うなら、やはりコミュニケーションで役に立ちたいものです。
企業がしなければならないことは、言うまでもなく本業をできるだけ早く軌道に乗せることです。復旧状況を取引先ばかりでなく、株主、投資家、顧客など社会全体に知らせ、情報を共有する。これは、現下の社会・経済状況においては非常に重要な企業活動と言えるでしょう。東証の適時開示情報閲覧サービス(TDnet)には、多くの上場企業から震災による影響や被害の復旧状況が開示されています。上場企業でなくても、これは必要なことと考えられます。広報やIRの担当者でなければできない震災対応業務の一つかもしれません。〈kimi〉
これでよいとは思いませんが
私は菅直人という人に一度も会ったことがありません。ましてや腹を割って話したこともない。メディアを通して、その行動の一端については70年代から伝え聞いてはおりますが、実際にどんな人物なのかはまるで判断がつきません。
その首相に対する批判がメディアで高まっています。とくにいくつかの新聞は、その一挙手一投足についてことごとく批判を展開しています。どんな思惑があるのか知りませんが(うすうすはわかっておりますよ、もちろん)、そこまで書かれるのですから、菅首相もお世辞にもうまくはやれてはいないのでしょう。
しかし、だからと言って他の誰かが政権を担えばうまくやれるのかと言えば、決してそうとも言えません。誰がやっても五十歩百歩。画期的に事態が改善するなんてことは望めません。日本が緊急事態に直面しているこんなときに政局を混乱させてはかえってマイナスでもあります。
それよりも気になるのは素朴な「強いリーダー待望論」が高まっていることです。強力なリーダーが一人であれこれ指示を出せば、物事の進行が多少は速くなるかもしれません。しかし、それに従って誤った指示を出す確率も高まります。さらに問題なのは、一つの価値観ですべてを決定してしまうことです。それによって不幸になる人たちが必ず出て来ます。多くの場合、幸福になる人たちより不幸になる人たちの方が多くなることは、過去の歴史からも明らかではありませんか。
現政権を支持しているわけではありませんが、妙な独裁者が登場するよりはよほどマシではないか、と考えつつ今後の成り行きを心配しております。〈kimi〉
新聞紙は役に立つ
すでに旧聞に属しますが、福島第一原発2号機のピットと呼ばれる溝から高濃度に放射能汚染された水が海に流れ出ていることがわかりました。結局は水ガラスを使って流出を止めることに成功したようですが、最初に試みたのはピットにセメントを流し込むことでした。それで効果が見られず、次に試みたのは吸水性ポリマーとおが屑と新聞紙を詰めることでした。
その作業が報じられているとき、テレビである新聞人が「新聞がお役に立ってよかった」と発言しているのを耳にしました。
ちょっと待ってください。新聞を役に立てようとしているのではなくて、新聞紙を役立てようとしているんでしょ、と思わず突っ込みたくなりました。新聞紙は、寒い避難所でも防寒具の代りに役立ったかもしれません。日本では新聞紙は津々浦々まで配達されているので、こういう事態ではいろいろと応用範囲が広い。書かれている記事はほぼ1日でその価値を失ってしまうにもかかわらず、紙の方はその後にも利用価値がある。それはそうですが、その新聞人の暢気な発言を聞いて、なにか新聞の将来を暗示しているような憂鬱な気分になってしまいました。〈kimi〉
どうして日本人は兵站を軽視するのか
被災地のみなさんにはまだ必要な物資が十分届けられていないようです。もどかしい限りです。やむを得ない事情もあるのでしょうが、たてまえ主義や形式主義や官僚主義によって物事が進まないということもきっとあるに違いありません。それを考えると腹立たしい限りです。
そんな中で、福島第一原発で作業に当たっている人たちの食事が1日2回で雑魚寝状態であると、数日前に報じられていました。その後、改善されているでしょうか。
腹が減っては戦ができぬと昔から言われています。当たり前のことです。しかし、目の前に任務や仕事があると寝食を忘れてそれに取り組むことが善であるという観念が日本人からはどうしても抜けないようです。それが日中・太平洋戦争での兵站軽視につながっていて、いまの福島第一原発にまでつながっていると考えると、これはもう日本人の宿痾としか考えられません。長期戦では、マンパワーが途切れることなく最大限に発揮できるようにすることこそが勝利への最重要課題でしょう。
先日ご紹介した『広報の基本』は産業編集センター刊「企業広報ブック」シリーズの第一巻ですが、その第六巻は危機管理広報に長い経験をお持ちの田中正博さんによる『クライシス・コミュニケーション』です。その中で田中さんは、クライシス発生時の備えとして次のように書いておられます。
「対策本部には常時、いろいろな社内の要人が出入りする一方、常時、在席しなければならない経営陣、管理職、担当者がいます。こうした人たちのために飲料と食事、あるいはドリンク剤は欠かせません。人数が多くなれば意外と多量の飲食料が必要になります。それを保管するための冷蔵庫が必要です。とりわけ、食事は重要です。長期対応に備え、食事は簡単な弁当では済みません。モラール(士気)に影響します。多少、値がはってもおいしい仕出し弁当にしておくことが肝要です」
これを読んで、「なんだつまらないことを書いている」と思った人は直ちに対策本部から出て行っていただきたい。私はこの指摘に大いに共感いたしました。〈kimi〉