本社内って?

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昨日はうららかなよい天気。満開の桜の下の千鳥ヶ淵公園で見つけました。
花見の場所取りのためにガムテープで囲って占有を宣言。それにしても「本社内」とは何ぞや? どこの会社の本社だ?
いやはや企業で生きるってことは・・・以下コメントする気なし。〈kimi〉

短気じゃないんですけど

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自宅の近所で撮った今日の桜です。都心より少し遅いようで、まだ9分咲きといったところ。
実は、4月初めというこの季節が私はちょっと苦手です。
そのわけは新人の季節だからです。新入社員や新入生など、新しい環境に身を置くことになった人たちが突然大量に街にあふれ出てきます。その人たちが、街角でも駅でも電車の中でも一斉にマゴマゴしています。慣れない通勤・通学ルートに戸惑っています。新入社員教育の会場への道を地図を見ながら探しています。新しい仲間ともまだ互いの気心が知れないので、グループで移動するにも統制がとれずに右往左往しています。自分だってはるか昔にはそんなときがあったに違いありませんが、しかし歩きにくいったらありゃしない。なかなか前へ進めないと、私の瞳の中にイライラの炎がともります。
私はとくに短気ではないつもりですが、「前へ進めない状態」というストレスには滅法弱いのです。
同じように前に進めなくてイライラの炎が燃えるのは、要領を得ない話し方をする人に出会ったときです。
要領を得ない話し方にも2種類あって、一つは、何を言おうとしているのか最後の最後までわからない人。もう一つは、何を言いたいのか、相手はすぐに理解したのに、なおもクドクドと説明を続ける人。どちらも話が長い。
こういう方々の多くは几帳面な性格をお持ちのようです。きっちりと初めから終わりまで話さないと気がすまない。枝葉まで説明しないと気がすまない。不正確な表現があっては気がすまない。話し洩れがあっては気がすまない。相手に誤解を生じては気がすまない、などなどなど。
また、この手の方は、話しを途中で遮られることをとても嫌うようです。最後までとにかく話させてほしいという気持が伝わってきます。その長い長いお話が終わると、ホットした顔をされます。誠にご苦労様なことですが、「結論を先に言ってくださいよ」とか「わかったわかった」などとは決して言わずに聞いているこちらも誠に苦痛であります。
繰り返しますが、私は短気ではありません。ただ人間的にまだ修養が足りないんでしょうね、きっと。 〈kimi〉

トップの椅子


この季節、連日新聞にトップの交代が報じられています。企業にとって、トップ交代は最大のイベント。広報も発表準備に神経を使い、発表後はトップインタビューが続いて気が抜けません。そんな経験を思い出すだけで、その頃の疲労感が甦ってきます。
さて、そのトップになった人たち。なり立てはいたって殊勝なものです。いくら威厳を取り繕おうとしても、「どうぞよろしくお引き立てを願います」といったところがチラチラ見えます。それが2年たち4年たち、もう1期やろうかという頃になると、そこはかとなくカリスマ性を備えてきます。周囲は腫れ物にも触るように、トップに接するようになります。
その象徴は椅子に表れる、ということに最近気がつきました。執務室の立派な革張りチェアのことではありません。会議室や応接室の席のことです。役員会などでは、出席者は会議机の長辺に並んで座り、チェアマンは短辺に席を占めることが多いようです。そのうち、その短辺の席はトップ本人以外は座らなくなります。トップの加わらない打ち合わせでも、その席だけは空席で残されます。畏れ多い、といった気持でしょうか、そこに座ると叱られるとでも思うのでしょうか。応接室も同様です。たいていトップの座る椅子は決まっています。その席には副社長も座らなくなります。
そうなったときにワンマン化が始まり、やがて独裁経営となり、ついには老害経営となります。
このようなことは外資系の企業ではほとんど見られません。つい先ほどまで社長が座っていた椅子に平社員が平気で座っています。日本人と欧米人との考え方の違いと言ってしまえばそれまでですが、このような企業文化の違いは、企業経営のいろいろな面に表れてくるようです。どんなところに表れるか・・・たくさんあって、今日はとても書く気になれません。いずれまた。
写真は自宅近所の桜です。このところの寒さでまだ一分咲き。〈kimi〉

欺されました

新聞の書評を参考にして本を買うようになったのは、40歳を過ぎた頃からでしょうか。
学生時代は、大学近くの古本屋街で、毎日のように棚を眺めながら帰りました。自分が関心を持っている領域なら、どの店のどこの棚にどんな本があって、それがいつ売れたかまで、だいたい頭に入っていたものです。一冊読めば、次に読みたい本や読むべき本の見当がおおよそつきます。そうやってチェーンのように読み続けました。チェーンスモーカーならぬチェーンリーダーです。
ところがだんだん毎日の帰りが遅くなってきて、たまに書店に立ち寄ってもじっくり棚を眺める体力と気力と時間がなくなってきました。読みたい本はいろいろあっても、どこから手をつけたらいいのかわからなくなりました。そこで、それまで半分バカにしていた新聞の書評に頼ることになったのです。
近頃の新聞には、毎週掲載される権威がましい書評欄のほかに、気軽に読める本を紹介するメージが設けられています。これから述べることは批判というか悪口なので新聞名は伏せますが、何週間か前のある新聞のそのようなページに、ある時代小説が紹介されていたのです。書名まで伏せてしまったら、何のことやらさっぱりわからないでしょうが、お許しください。広報を仕事をしている以上、新聞社にはイイ顔をしておかなくてはなりません。
で、そのページの評者である文芸評論家によりますと、「これまで推薦文を書いた本の書評は控えることにしていたが、はじめてその禁を破る。それほどにこの一巻は素晴らしい」ということです。これ以上の絶賛はありません。数日後にAmazonに発注しようとしたら、なんと品切れです。売れているようです。これなら書評は本物だと思って、ますます読みたくなりました。数週間後にもまだ品切れ。そこで都心の大書店までわざわざ出向いて増刷版を入手しました。
読んでがっかり。プロットの流れに無理があって、半ばあたりではストーリー展開に汲々としているのがミエミエです。登場人物の描き方も平板で、人物像が浮かび上がって来ません。帯に「愛する藤沢周平に捧げた渾身の一巻」とありましたが、天国の藤沢さんもさぞかし迷惑されておられることでしょう。信用できませんな、この文芸評論家。
これまで書評を参考にして失敗したことはあまりなかったのです。書評を読めば、私が関心を持って読める本か、どの程度のレベルの本かなど、おおよそ見当がつくものです。しかし今度ばかりは失敗でした。手放しの絶賛ほど胡散臭いものはないと気づくべきでした。広報の仕事を長くやっているのですから、そのくらいのことはわきまえていなければなりません。欺される私が悪い。しかし、いまいましいなあ、本当に。〈kimi〉

ゴロゴロ考

日頃持ち歩いているビジネスバッグは、PCを持ち運ぶことを前提にクッションが入っていたり、小物を上手に収められるポケットがついていたりします。ところが、いざPCを持って行く必要が生じると、ついキャスター付きのバッグを持ち出してしまいます。
PC仕様のビジネスバッグは空でもそれなりの重量があります。その上にPCと小物の重量約2kgが加わると、私にはとても重く感じられるんです。
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キャスターつきのバッグは、ゴロゴロころがしている分には実に楽ちんです。ところが階段ではハンドルを畳んで手に持たざるを得ません。都心には意外に階段が多いんですね。そのたびに車輪とハンドルでより重いバッグを手に持つことになってしまいます。ベビーカーなら親切な人が助けてくれる可能性がありますが、キャスターつきバッグには助っ人は現れません。また、ゴロゴロやっているときも、後を歩いている人にぶつけないように常に注意しなければいけませんし、自動改札を通るときもひっかけないように操作しなければなりません。これが意外に疲れるんです。さあ、どっちが得かよ~く考えてみよう、です。
電車で東京駅に近づくと、だんだんキャスターつきのスーツケースを持つ人が増えてきます。成田空港行きの特急に乗ったら、ほぼ全員がキャスターつきです。海外旅行に必要なあれこれを詰め込んだ重いボストンバッグを手で持つというのは、いまや“あり得ないこと”になってしまったようです。
海外旅行なら迷わずキャスターつき。国内旅行でもメリットは多い。しかし、都心の移動なら、重さと総移動距離のバランスで選択するのが賢い人なんでしょう。
そうは言っても、ゴロゴロの魅力は捨てがたいものがあります。坂の多い町でも自転車に乗る人が少なくないのと同じことなのかもしれませんね。〈kimi〉

切られた!

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どういう経緯でこうなっちまったのでしょうか。近くに梅林があるで、この切り株は梅の木かもしれません。東京郊外の某市にて。〈kimi〉

波打つ硝子

東大病院へ行くには有名な赤門ではなくて、本富士警察署の横の龍岡門から入るのが便利。病院行きのバスもそこを出入りしています。その龍岡門の前に一軒の古めかしいお煎餅屋さんを見つけました。
私、塩煎餅が大好きです。それもスーパーで売っている袋詰めではなくて、煎餅屋で売っている煎餅が好きなんです。好きが高じて「浅草・谷根千の煎餅」というサイトまでつくったことがあります。このサイトは5年間ほど、ほとんど更新をしていないので、すっかり情報が古くなってしまいました。近々取りつぶすつもりでおります。
そんな煎餅好きですから、店を見つけたら買わずに帰るわけには行きません。いまにもモゲてしまいそうな真鍮のノブを回し、上下でワナワナとたわむガラス戸を開けて店に入りました。奥に声をかけると、「はい」と小さな声が聞こえて老主人が出てきました。
煎餅30枚を包んでもらいながら
「おたくは古いんですか?」
と思わず出てしまった質問に、老主人の答えは、
「そこから斜めに窓硝子をみてくださいよ」
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これこそ迷回答にして、類い希なる名回答と言わなくてはなりません。
「ああ、波打ってますね。これは戦前の硝子ですね」と私。
「ここらへんは戦災でみんな焼けちゃったので、戦後間もなくなんですがね」
いまの板ガラスが極めて平滑です。斜めから見ても波打つなんてことはありません。しかし、昔は生産技術が未熟だったので、庶民の家に使うガラスはかすかに波打つのが当たり前だったのです。
老主人は、私の年格好をを見て、「硝子を見ろ」と言ったのでしょうか。硝子を見ただけで、答えがわかる人はある年代以上に限られます。
「あの頃は、硝子ビンにも泡が入っていましたね」と私。
「ほら、ここいらのビンにも泡が入っているでしょう」と老主人。
この店では、小さいあられの類はアルミの蓋のついたビンに入れて売っています。昭和40年代まで、こういう入れ物に飴やお菓子を入れて、量り売りをしているお店が多かったんです。
「この蓋もアルミだとわからない人が多いんですよ」
まさか。でも、そうかもしれないな、と思い直しました。
「江戸あられ 竹仙」というお煎餅屋さんです。これからもずっと商売を続けてほしいものです。〈kimi〉

この季節

インフルエンザの季節がようやく過ぎようとしています。と思ったらスギ花粉がもうやって来ました。なんともうとましき季節ではありますが、そのようなこの季節に、私はうるわしき一つの真理を発見したのでした。
毎日、通勤電車の中で、この真理を補強すべき傍証の数々を発見しております。ひょっとすると世界的発見かもしれません。
その真理とは「この季節には美人が増える」というものです。
インフルエンザや花粉症の予防のために、この季節にはマスクをしている人がぐっと増えます。マスクをしていると、目から上だけが衆目に晒されることになります。その眉毛とまつ毛と目との三点セットにおいて、実に美しい方が多いのです。そう思いませんか。
ある日の電車の中で見つけた女性など、名人の筆を思わせる整った眉、ナチュラルな長いまつ毛とくっきりしたアイライン、黒眼がちの憂いに満ちた眼差し。実に美しい。すっかり魅せられてしまいました。彼女が降りる駅までずっとお付き合いしたいと思ったくらいです。こんなことを書くとスケベオヤジそのもののようですが、美しいものは断固美しいのです。もちろんストーカーに間違われそうなことはせず、清く正しく後ろ髪を引かれる思いで、途中下車いたしました。
これは一体どういうことでしょうか。顔を構成している主な構造物には、上からオデコ、眉、まつ毛、目、鼻、口、唇、歯、アゴがありますが、目から上の構造物だけを見せると美人に見える確率が高くなる。ということは、鼻から下の構造物を晒すと「それなり」になりがち、ということにもなります。
ここでフェミニストやセクハラ撲滅運動に従事しておられるみなさまに、一言エクスキューズして置く必要がありそうです。私は決して誰が美人で、誰が「それなり」といった特定の方のことを申し上げているのではございません。あくまでも真理の追求が目的であります。
話を戻します。
美人か「それなり」かという人生を左右する大問題については、オデコ、眉、まつ毛、目よりも、鼻、口、歯、アゴにより大きな責任がある、ということになります。
なぜそうなるのか? 一つの仮説は、目から上の構造物は動きが少ないということです。それに比して、鼻から下の構造物は可動性が高い。動くとボロを出しやすいのかもしれません。
もう一つの仮説は、上に比べて下の方が可塑性が高いというものです。つまり、いろんな形が可能になるということです。いろんな形がつくれると、それだけ失敗確率が高くなると考えられます。
例えば歯です。出っ歯、受け口、乱ぐい、虫喰い、変色などなど、形がさまざまで、それが上がったり下がったり、むき出しになったり、隠れたり。ここに唇という可動性と可塑性にとくに優れた構造物がからむのですから、これらを用いて美を表現するのは極めて困難になります。
そこへ行くと目は、多少の大小、上がり下がり、一重二重等々はあるものの、大きく形態が変わることは少ないと言えるでしょう。動きと言えば、開けるか閉めるかしかありません。これは失敗のリスクが少ない。
と、こんなロジックをもって、マスクの季節には美人が増える、という真理の追求をしてみました。
もちろん例外も少なくありません。また、この真理は男性にはまったく当てはまらないようです。その理由はいまのところ定かではありません。〈kimi〉

ビミョー

「ビミョー」と若い世代の方がおっしゃるのは非常にビミョーでありまして、「微妙」の本来の意味からは微妙にずれているようでもあります
広辞苑第六版によれば、「微妙」は「(1)美しさや味わいが何ともいえずすぐれているさま。みょう。(2)細かい所に複雑な意味や味が含まれていて、何とも言い表しようのないさま。こうと断定できないさま」。
ビミョー」はもっぱら(2)の「こうと断定できないさま」に近い意味で使われているみたいです

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さてこの写真。
モルタルは長年風雨にさらされると、あちこちにヒビ割れが入ってきます。そこから水が浸入すると建物を腐らせる恐れがあります。早めに補修しておくに越したことはありません。とは言っても、全面的に塗り直すとなると手間も費用もかかります。そこでヒビの部分にだけに上塗りをするということになる。いずれ全面的に塗り直すとして、当面はこれで建物への影響を防止できる。その間の見てくれは我慢しようと、ま、そんなところだろうと、この壁を見て考えました。
さて、この壁をもう少し引いた場所から撮ったのが下の写真です。
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この位置から見ると意匠、つまりデザインの臭いがしないでもない。このマダラ模様を黒くすると、Gatewayというパソコンメーカーのパッケージに似ています。明らかに人為的なものを感じますが、デザインのように見せかけた上塗りであるという線も捨てがたい。実にビミョーなのであります。〈kimi〉

みごと合格!

「今年の漢字」を毎年発表している日本漢字能力検定協会が、公益法人のくせに儲けすぎだと叱られています。私の漢字能力も怪しいものですが、検定試験を受けてみようなどとは考えたこともありません。試験に落っこちたら面目ないし。というわけで、京都検定だとか常識検定だとか、その類には一切目もくれずにこれまで来ました。
ところが、なんの拍子か「茶道文化検定」なるものを受けてしまったのです。カミさんがお茶の先生から聞き込んで来たのですが、今回が初めての試験で、1級2級は来年から。初年度は3級4級の試験のみで、薄いテキストの中からしか出題しないというのです。
最初はやさしい、というのが検定界(というものがあるのかどうか知りませんが)の常識です。テキストを見てすぐにあきらめた日本アナリスト協会の検定も最初はやさしかったというウワサです。受けるなら今がチャンス。
私、恥ずかしながら、茶席というものに連なったことが一度もありません。いつか茶道を習ってみたいとは思いながらも、はい、そこでは手をこうやって、はい、そこで床の間の花を愛でましょう、つぎに茶碗を鑑賞します・・・等々、箸の上げ下ろしからお尻の拭き方まで指示されるのはかなわんなあと、どうにも気持が前に進みません。その上、なんだかんだと先生にお礼を包まなければならないのもちょっとコワイ。
そういう次第ではありますが、そのテキストについていた練習問題を試しにやってみたら、大学入試で日本史を選択しただけあって、かなりできる。がぜん挑戦意欲が湧いてしまったのでした。
テキストを3回さらりと読んで11月末の試験に臨みました。お茶は何科の植物か。てっきりバラ科と思いましたが、ツバキ科が正解らしい。これって、テキストに書いてないんですよ。ズルイ!
昨日、ついに結果の通知がまいりました。見事3級に合格です。91点で9問間違えました。カミさんは98点。ちょっと悔しいが、合格は合格です。さあ、お茶の文化ならなんでも聞いてくださいの心境です。
茶文化検定
ちなみに受験者数6,377名、合格者数6,303名。合格率98.8%だって。な~んだ、みんな受かってるじゃないの。原付免許よりやさしい。
来年の1級試験を受けるかどうかは、まだ決めておりません。こうやって主催者の資金集めに協力するのもどうかと思うし・・・。〈kimi〉