電報の存在価値

久しぶりに電報を打ちました。自分で打ったのは何年ぶりでしょうか。電電公社に電話をかけた記憶がありますから、70年代のことだったかもしれません。その後、勤め先では、近くにいるスタッフに「ちょっと祝電打っておいて」などととズボラを決め込んでいたのです。
さて、改めて自分で打つとなると、どうやって打ったらよいのか。インターネットで調べたら、NTTのサイトから直接打てることがわかりました。D-MAILというんだそうです。これって、なんか変です。ネットでつながっている先ならメールで十分じゃないのかなあ。なんでネットからわざわざ電報を打たなくちゃならないんだ?と頭の隅で自問しながら、D-MAILにアクセスしました。
私が打とうとしていたのは祝電です。今回も初めは手紙で祝意を伝えようと考えたのですが、これが実に難しい。心を込めた言葉を書こうとするとさらに難しい。とくに相手が親しい友人ではなく、目上の方だったり、半分義理だったりすると、これはもう紋切り型の祝辞しか頭に浮かびません。しかし、かつてはコピーライターを名乗っていた人間です。紋切り型で済ますのは少々名誉にかかわります。これはメールにおいても同様です。
ところが、電報では例文と言うものが用意されています。ネットが発達する以前からあったと思いますが、これがとても便利なのです。電報なら、この例文を利用して堂々と紋切り型を使っても世の中は許してくださるのです(と信じております)。また、電報では、心を込めれば込めるほど料金が高くなりますから、長文電報は相手に無用な恐縮をされてしまう恐れがある。それではかえって失礼です(ずいぶん身勝手な論理ではありますが)。しかも、電文は伝統的に省略の美を尊びます。「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」を理想としております。 べたべたした「心のこもった文章」を練り上げないで済むというのは、電報の最大の美点ではないでしょうか。故に名誉が傷つくこともありません。
さて、D-MAILのサイトで作業開始です。指示に従ってあれこれ選択をして行けばよいのですが、最初が台紙の選択でした。画面に現れたのは全部花をあしらった豪華なもの。どれがよいやら判断がつかず、とりあえず一番初め置かれている「パールアイボリーの額の中に赤やピンクのバラとアジサイ等を敷き詰めたプリザーブドフラワー(一部造花)です。置いて飾る他、壁掛けとしてもご利用頂けます。」という台紙をクリック。それから電文の入力へと進みました。
そのとき、何か心をよぎる不穏なものを感じました。こういうときは早まっては行けません。思い直して台紙選択の画面に戻りました。そして気がつきました。一番最初に掲げられているのは一番高い台紙であることに。なんと20,000円です。アブないアブない。
よく見れば一番最後に目立たないように0円の普通の台紙も掲載されていたのですが、そのときは気がつかず、3,000円の多少しゃれた台紙に変更して事なきを得ました。
以前、電報の廃止が議論されたことがありました。どういう理由で生き残ったのか忘れてしまいましたが、電報には上記の「紋切り型が通用する」という美点のほかに、受け取った方に「わざわざ電報を」というワザワザ感を喚起させるという美点もあります。義理の世界では電報はいまだに存在価値があることを再認識いたしました。サイトから電報を打つというおかしな行為にも一定の意味があるんですね。
しかし、NTTの策略にひっかかって20,000円の台紙で発信してしまった人も多いんじゃないかなあ。

さも

麻生首相の漢字を読む能力が話題になっています。「未曾有」を「みぞうゆう」、「頻繁」を「はんざつ」、「有無」を「ゆうむ」、「完遂」を「かんつい」等々。
これほど実例が出てくると教養を疑われても反論しにくいでしょうが、誰でも間違って覚えている言葉の一つや二つはあるものです。
私の場合です。
「最も」を「もっとも」と読まずに「さも」と読んでおりました。最も早い」は「さもはやい」、「最も小さい」は「さもちいさい」です。「最」という漢字の音が「サイ」であることに影響されたのかもしれません。それで通っていたのだから不思議です。おっと、これは高校1年までの話で、いまはちゃんと修正されておりますのでご安心ください。
間違いに気づいたきっかけは英語の授業でした。最大級の単語が使われているセンテンスの和訳を命ぜられて「さも」と訳してしまいした。「『さも』とはなんですか?」と怪訝な顔で質問した英語教師のメガネ越しの目をいまも覚えています。しかし私は「さも」と読むものだと信じ込んでいましたから、その指摘をとっさに理解することが出来ませんでした。
社会人になっても誤読していたのが「施錠」です。すいません、「せんじょう」と読んでおりました。これは「施」と「旋」の読み違いです。これも誤解のないように申し上げておけば、すでに完治いたしております。が、間違いに気ついたのは40歳を過ぎてからでした。
首相の読み違いに同情はいたしませんが、さりとて青筋立てて批判する気持にもなれないのは、きっとこのような私の過去によるものでしょう。

認識における環境の影響について

先日、都内某所にてトイレに駆け込みました。ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのが奥の棚に積まれた予備のトイレットペーパーです。筆文字で大きく一字「褌」。
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さて用を足し、落ち着いてよくよく見れば、これは「褌」ではなく「輝」ではありませんか。
トイレだから「褌」と思ったのは大勘違い。人間って、やはり環境に支配されるものなんですねえ。
しかし、なんでトイレットペーパーが「輝」なんだろう。負け惜しみとともに釈然としない思いで、トイレを後にした私でありました。

今朝の都営地下鉄新宿線にて

何気なく額面広告を眺めていたら、「ヤミ金融に手を出してはいけない」というご注意の広告が目に入りました。
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他人事ではなくご注意が身に沁みました(借りてませんよ、借りてません!)が、「『おかしいな』と思ったら相談してください」というその担当窓口を見てびっくり。「東京都産業労働局金融部貸金業対策課」。イチニイサンシイと数えたら17文字ありました。 そういう名前の部署なんだから、仕方がないと言えば仕方がないのでしょうけど、なんとかならないものですかね。
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そうなると、「厚生労働省職業安定局○○労働局公共職業安定所」の22文字を「ハローワーク」にしたのは、なかなかの英断に思えてきます。あそこも名前だけで、中味は極めてお役所的なところではありますが・・・。
世の中不景気なもので、話題がついついこのような方向に向かってしまいます。がんばらなくっちゃ。

昭和10年生まれということ

昨日、筑紫哲也さんの訃報に接しました。日経はお座なりだったけれど、他紙の朝刊には、その死を悼む記事が大きく掲載されています。
リベラルという一言で片付けてしまってはいけないのでしょうが、いまの日本の風潮の中で珍しくレフトの守りについていた人、それでいながら大きな影響力を維持していたジャーナリストだったと思います。
筑紫さんは昭和10年生まれ。ということは終戦時には10歳です。小学校(当時は国民学校)で小国民として忠君愛国の教育を受けていたのに、敗戦によって平和国家日本と180度価値観が変わった体験をしている世代です。それまで使ってきた教科書に墨を塗るという経験もしたでしょう。
いま、その世代の人たちの中に、戦前の価値観を声高に懐かしんだり評価する人たちが少なくありません。
本土で育った昭和10年生まれの人たちの中には、空襲から逃げ回ったりご家族を亡くされたりした方もおられると思いますが、本当の戦争、つまり戦地へ赴いたり戦闘を体験したりするには年が足りませんでした。銃後で美化された軍国教育を受けていたはずです。教科書に墨を塗らされたとしても、それまでに醸成されてきた価値観を否定するだけの理性を持つにも少し幼過ぎました。それがいまになって、戦前の価値観への素朴な美化につながっているような気がしてなりません。
昭和10年生まれには現在の日本経団連会長や前日銀総裁など、財界や経済界でいまだに活躍されておられる方々が多数おられます。そして、筑紫哲也さんもその世代の一人だったことに、ある種の感慨を覚えます。
孤高のレフト、という表現が筑紫さんにはふさわしい。それは少々さびしくもあり恐ろしくもあるのですが。

ABC現象

私の年齢に平行するように、友人たちも歳を取って行きます(当たり前だけど)。
その過程で、何人かの友人が同じような変化を見せ始めました。頭の上の毛のことでもお肌のシワのことでもありません。
その一人、Aさんの場合。
居酒屋に仲間たちが集合すると、まだ中ジョッキが来ないうちからAさんは自分の近況を話し始めます。先週の土曜日には××(中味を書くと誰なのかバレてしまうので伏せ字とします)があって、××をした。火曜日には××へ出張して、××へ行って、××を見て面白かったなあ。それから××さんと会ったら××だって・・・これが止まらない。2杯目の中ジョッキからお酒に切り替わってもまだ止まりません。オッと10時か、明日が早いから今日はこれで。5,000円置いて行けば間に合うかなあ。お釣りはいりません。じゃ、失礼。と、そそくさと帰ってしまいます。
嵐が過ぎ去り、Aさんを前にしゃべる機会が得られなかった友人たちは、改めてお互いの近況を語り合うことになりますが、すぐに終電が心配になって、お互い物足りない思いを抱きつつ解散することになります。
Aさんも、昔はこうではありませんでした。どちらかと言えば控えめで、他人の話もよく聞く人でした。会社での地位も上がり、管理的な立場になったことが多少は作用しているのかもしれませんが、一種の老化現象とも考えられます。残り少ない人生の時間を有効に使って自分の存在をアピールしなくては、という本能が働いているようにも思えます。
こういう変化を見せる人がAさんばかりでなく、Bさん、Cさんと存在するから怖い。対照的に私は聞き役に回ることが多くなっていますが、ときには私も無自覚にABC現象を示しているかもしれません。実はこの方がもっと怖い。老けるほど頭を垂れる稲穂かな。

確信犯

朝、半蔵門駅の階段で、前を行くご婦人に目が止まりました。このご婦人、渋いお着物をお召しになっているのですが、その背中にアディダスのデイパックを背負っています。和服にデイパック。明らかにミスマッチですが、デイパックの色をコートの色にぴたり合わせています。「確信犯」なんですね。これはよい被写体を見つけたと、地上に出てからご婦人をやり過ごして、カメラを向けました。
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シャッターを切ろうとしたら、カメラの設定ダイヤルがずれていました。慌てて直している間に、ご婦人はスタスタと歩み去り、残念ながら失敗作となりました。
このところ常にデジカメを持ち歩いて、シャッターチャンスを狙っているのですが、なかなかよい場面に出会いません。
先日は路地を歩いていたら、庭でお嫁さんがお舅さんの頭を刈っているところに出くわしました。近頃珍しいとてもよい光景でしたが、ついにシャッターを切る勇気が出ませんでした。肖像権に注意しなければならない昨今、ヘタクソなアマチュアカメラマンに撮影のお許しをいただけるかどうか自信が持てませんでした。そんなこんなであきらめたんですが、後の後悔先に立たず。とっても残念でした。

日暮里・舎人ライナー

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日暮里・舎人ライナーというのに初めて乗ってみました。開通は今年の3月30日。すでに7ヶ月経っていますが、一度乗ってみたいと常々思ってました。鉄道マニアではありませんけど、一応「男の子」なので乗り物は好きな方です。それにも増して新しもの好きなんです。
日暮里駅の路線図を見ると、終点は見沼代親水公園となっています。東京の西側で生まれ育ったもので、このあたりの地理はさっぱりわかりません。終点がどんなところかイメージもわきませんが、とにかく終点まで行ってみることにしました。乗ってみると、意外にスピードを出します。多摩モノレールよりずっと速い。乗り心地は、鉄路を走る電車とは明らかに違います。なにか軽自動車みたいに安っぽくて、それほど心地よいとも言えません。ゆりかもめの乗り心地に似ています。
この日暮里・舎人ライナーは東京都交通局の経営。つまり都営地下鉄や都バスや都電荒川線と同じ都営なんです。しかし多額の出資をしている多摩モノレールは都営ではなくて、ゆりかもめも都営ではありません。事情はあるのでしょうが、なにかおかしいですね。
約20分で見沼代親水公園駅に到着。見回しても、どこに公園があるのかさっぱりわかりません。駅前には飲食店もなし。はるか向こうに吉野屋がただ一軒見えるだけです。お腹も減っていたので早々にもと来たルートを引き返すことにしました。
このライナーは自動運転で運転手がいません。帰りの席は一番前。途中の駅で乗り込んで来た子どもたちがうらやましそうでしたね、ははは。
帰り道、根津のあたりをぶらぶら歩いていたら、お寺の本堂を犬が守っているのに出会いました。
本堂を守る犬

須賀敦子のエッセイ

もう半月ほど前になりますが、知り合いの大学教授からのメールに、奥様から雑誌を買ってくるように頼まれたとありました。生協で購入すれば一割引なので大学に寄ったついでに、ということだったようです。その雑誌とは今月号の「芸術新潮」。そう言えば新聞の広告を見て、私も買おうと思っていたところでした。今月号は須賀敦子の特集です。私は須賀の読者ではありませんが、その文章への評価が高いことは知っていました。以前このブログに書いた辰濃和男の『文章のみがき方』にもすぐれた比喩の使い手として取り上げられています。
そうこうしているうちに、この弊社のサイトのお世話をしていただいているMさんもまた須賀の愛読者であることがわかりました。没後10年で、あらためて注目されているようです。
購入した「芸術新潮」。例によって写真がすばらしい。イタリアへ須賀の足跡を追った記者の文章も侮れないレベルです。そしてなによりも引用されている須賀敦子の断片の数々。
彼女が紡ぎ出すことばは音楽のようです。心地よいリズムはもちろん、旋律さえ感じさせます。思わず朗読したくなる、と言えば理解しやすいでしょうか。『声に出して読みたい日本語』など、この文章の前には全く無用のものです。
というわけで、さっそく河出文庫の『須賀敦子全集』を買って読み出したのでした。私もこの半月ですっかり愛読者になってしまいました。美しい文章は、こころを洗ってくれます。

昨日・今日・明日館

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昨日の午後は女義太夫を聴きに行きました。演目は「菅原伝授手習鑑-寺子屋の段」。歌舞伎や文楽で義太夫は何度か聴いていますが、女義太夫というのは初めてです。誘われなければ聴く機会などありそうもないので、物は試しと出かけました。初体験のことだし、女義太夫に関しては「こんなものかなあ」という程度の感想ですが、その会場というのが池袋の明日館講堂でした。羽仁吉一・もと子夫妻がつくった自由学園の建物です。ここも初めてです。
池袋駅の西口を出ると「ふくろ祭」とかいうカーニバルのような催しで大騒ぎ。その喧騒を離れて、地図を頼りに静かな路地を進むと、婦人の友社がありました。「こんな奥深いところに」との感慨を抱きつつ、その角を曲がるとライトの設計による国の重要文化財「明日館」(写真)が見えて来ました。昨日は、結婚式に使われているとかで中には入れず。期待していたのに残念。
さて、今日の朝日新聞朝刊です。その婦人の友社が全面広告を出しています。昨日見た社屋を思い出しつつ、この出版不況下にあの地味な出版社がどうして?と意外の感を受けましたが、編集長さんの大きな写真の下の小さな経歴欄を見たら自由学園卒とあるではありませんか。社屋が学校の近くだから入社したのかなあと、実はそのときまで知りませんでした。婦人の友社って、羽仁夫妻がつくった雑誌社だったんですね。長く広報をやっているのに知らないことはたくさんあるものです。昨日の今日でちょっとびっくり。
ついでながら羽仁夫妻の娘が評論家で婦人運動家の羽仁説子。その亭主が、全共闘時代に一時期読まれた「都市の論理」の著者である羽仁五郎。その息子が映画監督の羽仁進で、その別れた女房が左幸子で、その娘が羽仁未央。と、このくらいは知っていたのですが。