昨日お手伝いした記者発表が多くメディアで報道されて、午前中は担当者がクリッピング作業に大汗をかいていました。
一方で、記者発表してもほとんどニュースにならないケースもあります。反響が少ないと、お手伝いしたPR会社としてはなんとも申し訳ないような気がいたします。私たちにも責任の一端はありますが、なんと申しましてもニュースバリューのあるなしが、報道の量と質に決定的な影響を及ぼします。
ところが情報の発信元であるお客様の方で、ニュースバリューを客観的に評価できない場合が少なくありません。できるだけ「これはあまり報道されないかもしれませんよ」とお伝えするようにはしておりますが、伝えにくいこともしばしばです。こちらがエクスキューズしているように受け取られることさえあります。
まったく“PR会社はつらいよ”であります。
オウンドメディアだったのか?
昨日、NHKのTV画面のカッコ表示について書いたら、今日はなくなっていました。このブログを読んだのかな?・・・そんなことはあり得ませんが、内部でも、いつまで続けるか議論があったことでしょう。
で、先日来の報道によれば、会長さんが原発に関連するニュースは政府の公式発表に従って報道しろと指示したとか。この方は民主主義とか基本的人権といった問題を真剣にお考えになったことがないのでしょう。
それはともかく、これでは政府の広報になってしまうとどこかの識者のコメントが新聞に掲載されているのが目にとまりました。広報? ま、そうも言えますが、メディアであることを踏まえれば、最近流行の用語で「政府のオウンドメディアになろうとしている」と表現した方がよいかもしれませんね。
カッコ書き
4月14日の熊本地震(前震)以来、NHKのテレビ画面には上と左に情報枠が設定され続けています。いつまで続けるつもりなんでしょう。
今日の時点では、左側に「熊本地震 関連情報」、上には気象庁の発表や義援金の振込先などが表示されています。こんな情報なら不要なのではないですか?
被災者のみなさんの中には携帯やスマホを持っていない方もおられるでしょう。しかし、それらの方々がNHKテレビのこの枠に表示される情報を必要としているとはどうしても思えません。まして全国に流す必要もないでしょう。このような認識は間違っているでしょうか?
なんとなくお為ごかし、「カッコつけている」だけじゃないかと邪推してしまうのです。そう言えばこの枠、カッコ形(「)ですね。
複雑な気持
一年ほど前のことですが、土曜の午後、ある研究会に出席しました。医学部の真新しく広い会議室に50名近くも集まっていたでしょうか。この会は毎回、いろいろな職種のみなさんが医療報道に関して熱心に議論するのでとても勉強になります。
ところがその日は、一人の男性がとなりの若い女性と小声でしゃべり続けています。前で行われているレクチャーや議論にはまるで関心を示すことなく、楽しそうにペチャクチャやっているので気になって仕方がありません。いや、若い女性と話していることでなくて、そのヒソヒソ声がです。
研究会が終わると、さっと起ち上がって幹事役の某新聞デスクに挨拶しています。後で確かめたら、某雑誌の編集長であるとのこと。一体何しに来たのでしょう。その行為は人格を疑わせるものです。それ以前も好みの雑誌というわけではありませんでしたが、以後大嫌いになりました。
ところが、最近なかなかいい記事がその雑誌に掲載されているのです。読まないわけには行きません。ちょっと複雑な気持です。
広報の観点からは言うべきことなし
世の中に100%法律違反をしたことがないという企業は存在しないでしょう。営業社員が駐車違反することもありますし・・・。しかし、業務の根幹の部分で脱法行為をしている企業は、早晩社会から排除されることになると思います。
広報活動というものは、脱法・不法行為をしていない、あるいはしないように努力している99.9%のふつうの企業であることを前提としているのだなあ、と改めて考えました。
三菱自動車の燃費偽装の件です。あの謝罪会見に関して広報の観点から言うべきことは何もありません。そこをなんとかダメージを最小限に食い止めるのが広報だというご意見もあろうかとは思いますが、脱法・不法行為をカバーすることが広報の役割だとはどうしても考えられないのです。
価値を共有する国
「価値を共有する国」という表現をしばしば目にするようになりました。いまの政府が頻用しているからだと思いますが、外務省の資料によりますと、「普遍的価値(自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済)に基づく」外交をするのだそうです。
価値を共有していないのは中国や北朝鮮、韓国(直近はどうなったか知りませんが、少なくとも昨年秋までは)等、共有しているのは米国や西欧諸国、オーストラリア等々ということなのでしょう。
昨日の報道によれば、国際NGO「国境なき記者団」による2016年の「報道の自由度ランキング」が発表され、日本は72位だったそうです。
少々乱暴ではありますが、少なくとも報道の自由に関して言えば「価値を共有する国」とは日本と順位の近い国ということになりそうです。
70位韓国、71位タンザニア、73位レソト、74位アルメニアあたりがそれです。
176位の中国、179位の北朝鮮とともに、1位のフィンランド、2位のオランダ、3位のノルウェーなどともどうやら価値は共有していないようですね。
広報と蛇口との関係
広報は口が固くなくてはできません、と広報セミナーなどでは強調しております。最適なタイミングで、過不足のなくわかりやすい内容で、必要な対象に向けて発信する、これが情報のコントロールというものではないか。コントロールできずにだらだらと情報をもらすようでは広報は務まりません。その反対もまた同様です。
これまでお目にかかった多くの広報担当者のみなさまの中にも数人、これはいかがか?と思われる方々がおられました。おしゃべり、口が軽い、ダダ漏れ、コチコチ・・・いろいろな表現が可能ですが、ふと水道の蛇口のイメージが思い浮かびました。
Aさんは、天性のおしゃべりで蛇口の栓が開きっぱなし。ジャージャーと情報がほとばしります。その中にはどうでもよいことも重要なことも言ってはいけないことも含まれているといった塩梅です。
Bさんは、決しておしゃべりではありません。どちらかと言うと話し下手。しかし蛇口の栓を完全に閉め切ることができずに、本人も気づかないうちにポタポタと情報が漏れて行きます。
Cさんは、いつもは口が固いほうです。しかし、何かのきっかけで突然栓が開いてしまいます。そこを記者につけこまれます。
Dさんの蛇口の栓は固着していて、どんなに力を入れても回りません。回らないから一滴も漏れませんが、報道関係者からは評判がとても悪い。これでは広報が務まりません。
いろいろな方がいらっしゃるものです(^○^)。
吹っ飛んだ!
内容はともかく日本語が・・・
熊本地震の報道が続いています。
想像以上、予想以上、想定外・・・いろいろな言葉が浮かびますが、気象庁もこれまで経験したことのない現象が起こっているようです。日本で記録に残っているのは貞観地震あたりからのようですから、たかだか1,000年余に過ぎません。何万年というスパンの地球の動きを考えれば、私たちの想像を超える事態はまだまだ起こると考えなければなりませんね。原発だいじょうぶかな・・・というのはさておき、昨夜、日経新聞が熊本城の被害について報じていました。それはよいのですが、
「熊本城の被害の甚大さは堀の外から眺めるだけでも十分に痛感できる。」
という表現にぶったまげました。書いた本人もさることながら、デスクはなにやってんですかね。熊本城とともに日本語の崩壊も報じようということなのかな?