日本医学ジャーナリスト協会が昨年に続いて企画した東日本大震災被災地への取材ツアー(3月30~31日)に参加しました。被災地の復興がどこまで進んでいるのか、原発事故の影響は住民の健康や意識にどのような影響を及ぼしているのか等々、現地の方々からお話をうかがおうという企画です。気仙沼市、南三陸町、石巻市、女川町、仙台市(宮城県庁)、相馬市、南相馬市と3県7市町を駆け巡り、首長をはじめ地元開業医の先生、被災地の復興に尽力されている経営者や市民、「語り部」として活動しておられる方など10名以上のみなさんから直接お話を聞くことができました。
印象に残るお話をたくさんうかがいましたが、その中の一つです。
死者625名、行方不明者199名を出した南三陸町の佐藤仁町長。町長ご自身も防災対策庁舎の屋上のアンテナにつかまって九死に一生を得ました。その佐藤町長は震災の直前、たまたま阪神淡路大震災の経験者の講演を聞いていて、そこで心に残っていたことが二つあったそうです。
一つは職員の食事を確保する必要性。
これはたしかに日本人がおろそかにしがちなポイントです。兵站(戦場の後方にあって、兵器・食糧などの管理・補給に当たること=明鏡国語辞典)は旧日本軍の最大の問題点でもありました。いまの企業においても業務の遂行にばかり熱心で社員の体力や健康への配慮を欠いたことによる悲劇が繰り返されています。
この3月に文庫本になったばかりの「河北新報のいちばん長い日--震災下の地元紙」にも、震災直後に「おにぎり班」を組織して、食料や燃料が入手できない状況下で震災報道に当たる記者たちを支えたエピソードが紹介されています。
二つ目はメディア対応の重要性。
佐藤町長は毎日自ら記者会見してメディアの取材を受けていたそうです。これはトップがするべきことだ、と町長は強調しておられました。トップが取材に応じるからテレビも新聞も取材に集まる。メディアへの露出が増える。その結果として全国的に注目され、援助額が他の被災地よりも大きくなったそうです。確かにテレビニュースや新聞でのインタビューで何度も町長のお顔とお名前を拝見したことを覚えています。
広報の基本をあらためて認識させられたお話でした。〈kimi〉
悪者にされた広報活動
STAP細胞に関する論文に「重大な過誤」があったという発表と、それまでの一連の報道には驚きました。本当にSTAP細胞が存在するのかどうかはともかくとして、少々気になるコメントが複数の識者から出されています。
発表は功をあせりすぎた結果ではないか、早く“広報したい”という気持が影響したのではないか、というものです。ある高名なコメンテーターは、研究に広報が関与するのはけしからんといった発言までしていました。
これは極めておかしな意見です。「重大な過誤」が功を焦った結果であろうことは容易に推測できます。が、それと広報活動を安易に結びつけるのはいかがなものでしょうか。
早いタイミングで大々的に記者発表することで得をする人がいたとして、その人の関与があったのだとしても、それと論文内容の「重大な過誤」との間に因果関係があるはずがありません。割烹着姿での研究風景も、広報効果を狙った意図的な仕掛けであったかもしれませんが、それと今回の問題の本質とは別問題です。
素晴らしい研究成果はいち早く広く知られるべきものです。国民は知る権利を持っています。また、科学は自由な発表が保証され、反論の自由もまた保証されるべきものです。これには誰も異存はないでしょう。問題は、広報活動をすることにあるのではなく、「重大な過誤」のある論文を投稿したこと、また一流専門誌がそれを査読で通したことに尽きるはずです。〈kimi〉
やめてくれ
「トップへの取材が終わっているのに、それを記事にしないでくれと広報から言われたんですよ」と、ある記者がぼやいていました。
広報の本質を知っている人なら、このような申し入れがいかに間抜けなものであるか理解できるはずです。
取材の申し込みを受けた時点で後戻りはほとんど不可能。あえてそんなことをすれば、メディアからどんな穿鑿をうけるかわかりません。ましてやインタビューを受けてしまったのですから、その内容はすでにメディアに渡ってしまったわけです。記者が聞いたことを書くか書かないかはメディアの判断による。そんなことは広報の基本の「き」です。それを「やめてくれ」と言うのは、言論の自由に関わる問題でもあります。そこまでその広報の責任者は考えたかどうか。まことにお粗末な話です。
インタビューで答えた後になんらかの変化が起こったのなら、訂正を申し入れればすむことです。記者は喜んで修正に応じてくれたでしょう。そうしなかったのはなぜでしょう?
気になるのは、「やめてくれ」が広報の判断なのかという点です。どうやらトップからの指示らしいとその記者は推測していました。すっかり見抜かれているのです。トップからの理不尽な指示に対して広報責任者は異論を唱えなかったのでしょうか。たとえ最後にはトップに押し切られたとしても、唯々諾々と指示に従ったのと、自分の意見を具申した上での結論とは、記者へ申し入れるときのニュアンスが微妙に異なるものです。それを有能な記者なら鋭く感じとります。
「やめてくれ」という申し入れにもかかわらず、その話を聞いた数日後、インタビュー記事はめでたく掲載されていました。それについて広報が再び記者にクレームを入れたかどうかはまだ聞いておりません。〈kimi〉
出版社はおわびをしないのか?
今年になって電車のトラブルに続けて巻き込まれました。人身事故による「運行見合わせ」や「大幅な遅れ」に遭遇することすでに5回。さらにこのところの雪で、いつもなら1時間で着くところが2時間もかかったりしました。ただのダイヤ遅れなら、いずれは着くだろうと、急ぎの用事さえなければのんびり構えることもできますが、途中の駅まで進みながら止まってしまい、いつになったら動くのかさっぱりわからないとなると途方にくれます。このまま運行再開を待つか他社線に迂回すべきか、的確なアナウンスがなければ判断のしようがありません。
ビクトル・ユゴー作「レ・ミゼラブル」。19世紀のフランス文学を代表する長編小説ですが、フランスの歴史について多少の知識と興味を持っていないと実に読みにくい小説でもあります。筋立てが進行する部分は半分ほどで、あとの半分には当時の政治情勢に関する作者の認識やら義憤やらが書き連ねてあります。そこが難所で読み通すのがつらい。つらいけれども、そこを読まないとこの小説の真髄はたしかにわかりません。
その「レ・ミゼラブル」の新訳全5巻が2012年の秋から出版され始めたので、決意を固めて読み始めました。
第1巻を読み終わる頃に第2巻が出る。実によいテンポで出版されて、順調に読み進むことができました。つらい難所もかつての大先生訳よりは読みやすく、なんとか乗り越えました。ところが、第4巻が2013年2月に出て以来、パタッと出版が止まってしまいました。出版社からは何のインフォメーションもありません。最終巻が出版されるのをこのまま待つか、別の訳本で読了してしまうか・・・。途中駅で止まった電車の乗客そっくりの状態に陥りました。せっかく座れた電車ですから、そのまま居眠りでもしていようか思っているうちに、すっかり熟睡してしまい、目覚めたら2014年2月、突然に最終第5巻が発刊されました。
ところがです。ようやく出た第5巻のカバーにも帯にも、発刊が遅れたお詫びは書かれていません。訳者のあとがきには夫人への“おのろけ”が書いてあるばかりで、翻訳が遅れた理由も弁解もありません。
第一巻が出たのは、この小説を原作とした評判のミュージカル映画が公開されたタイミングでした。いま出せば売れるに違いないと、翻訳がすべて終わっていないのに見切り発車して、見事に「大幅な遅れ」に直面したのだろうと想像します。せっかく原作を読了してから映画を見ようと計画していたのに、上映期間には間に合いませんでした。仕方がないので長い停車中にwowowで見てしまいました。
良心的な書籍を出し続けている出版社として、これは残念な企業姿勢と言えるでしょう。顧客に対する情報公開について、どのように考えているのでしょう。〈kimi〉
古新聞
毎朝の通勤電車でしばしば隣り合わせる初老の男性はいつも熱心に新聞を読んでいます。日常的な光景ですから、特段に気にとめることもありませんでした。
ある日、何気なくその男性が読んでいる紙面に目を移しました。その瞬間、クラッと眩暈のようなものを感じました。軽い見当識障害のようでもあり、既視感にとらわれたようでもある。自分がどこにいるのかわからないような気分、と言ったらよいでしょうか。
10秒か20秒ほどかかってようやくわかりました。彼が読んでいるのは今日の新聞ではない、ということが。
それは2日前の夕刊でした。発行当日に読んだ記事の記憶と、その朝の最新の新聞を読んだ記憶との間で整合をとるのに、私の脳が少々手間取ったのでしょう。初めから古い新聞であると認識していれば、そのような不思議な感覚を体験をすることもなかったはずです。
そのむかし、「今日の出来事」というTVニュースがありました。新聞記事やニュースはまさに今日の出来事を伝えていますが、その多くは報道の時点で終結してしまったのではなく、その後も刻々と事態が変化しています。翌日の新聞にはその続報が掲載されています。私たちは現在進行形で報道された出来事の動きや変化をとらえているのでしょう。数日前の新聞の見出しをそれと知らずに認識した私の脳は、進んでいるはずの事態が逆戻りしていることで混乱してしまった、というのが私の推測です。
過去の記事を読むことにも意義がありますが、新聞の本質はやはり「新しい」ということなんでしょうね。〈kimi〉
ヘタの直接話法
話し上手というのは、広報を仕事にする人にとってはかなり必要度の高い能力です。単にペラペラしゃべればよいというものではありません。おしゃべりは広報の仕事ではむしろマイナスです。話し上手とは、正しい内容を筋道を立てて相手に理解できるように話す。それだけのことではないでしょうか。
これは心がけ次第でできるものです。しかし、心がけなければ、いつまでたってもできない。そういうものでもあると思います。
話しベタの方はいろいろなタイプがあります。訥弁は、必ずしも話しベタではありません。とつとつと説得力のある話し方をする人もたしかに存在しますから。
ある事柄を伝えるのに、多くの言葉を使う人と少ない言葉で伝えることができる人がいます。多くの言葉を使うということは、話が長いということ。話したいと思う内容をシンプルなストーリーのまとめられない、脇道にそれる、言ったり来たりするといったことがあると、話は自然に長くなります。聞いている方も、いつになったら結論に到達するのだろうとジリジリしてきます。
このような話しベタの中に、「直接話法で話す人」がいます。たとえば、こんなふうに・・・。
「記者クラブに入ったら、長髪の人がいたんで『世紀火災広報の木戸と申します』と言ったんですよ。そしたら『世紀火災って、なんかあるの?』なんて言われちゃって。それであわてて『いいえ、ごあいさつにあがっただけです』って言ったんですけどね。『忙しいから後にしてよ』って言われちゃいました」(題材は高杉良著「広報室沈黙す」から借用しました)
直接話法も一種の修辞法です。うまく使えば実に効果的です。しかし、多用すると話は確実に長くなります。長くなるばかりでなく、これは無責任な話し方でもあります。
直接話法を多用するのは、他の人が話した内容を要領よくまとめて間接話法で話す能力が不足していることを示しています。そのような人が、自分が伝えるべき内容をシンプルなストーリーにまとめられるはずがありません。話しベタの一つの典型です。〈kimi〉
書類整理と人事考課は似ている
今年もはや最終営業日となりました。街を歩くと、あちこちのビルの窓にガラスを拭いている人たちの影が動いています。
私たちのような仕事では、大掃除の大半は書類の整理です。仕事が一段落する都度整理して、不要な文書を捨てておけばよいのですが、それがどうにも億劫で、とりあえず机の上に放り出しておく。次の書類はその上に積み上げておく。西之島の噴火のように山が日に日に高くなるのを横目に、見て見ない振りをして来た報いを、この一年最後の日にいっぺんに受けることになります。
書類整理ほどストレスを感じる作業はありません。書類に一つひとつ目を通して、なくてはならないもの、一応キープしておくもの、他の人に押っつけてしまうもの、そして、整理してしまうものにより分ける、そのストレスが何かに似ていると思ったら、人事考課を思い出しました。考えてみれば、どちらも個々に評価を下し、その後の対応を決定するという点で極めて似た仕事だと気づきました。
一年間ともに過ごした部下や書類の運命を決めるのはとてもつらいことです。ビジネスではときに非情にならねばならぬ、と自分自身を納得させつつ、先ほど大きな燃えるゴミの袋をこしらえました。ああ、くたびれた。
写真は、私の机上ではありませんので、誤解なきようにお願いします。
よい年をお迎えください。〈kimi〉
笑顔のよさ
広報セミナーで、「広報担当者に求められる資質は何か」と質問されることがあります。知識やスキルなら、努力すれば解決することなので列挙することも容易なのですが、資質となると言いにくい。その人の持って生まれたものもあるし、その後の成育環境に影響されている部分もあるからです。言い方によっては差別にもつながりかねません。
厳密には資質ではないかもしれませんが、まず強調するのは「口のかたさ」です。「広報は口がかたい」と社内からの信頼が得られれば情報が集まってくる。トップシークレットでも事前に伝えてもらえます。
社会常識や庶民感覚も重要な資質です。そのような「感覚」は、理解するというよりも、身つけるように心がける必要があります。
倫理観。これは養えるものかどうか。企業倫理についていくら勉強しても、いざというときは個人の倫理観が問われます。生まれつきの正義漢といった人もたまにはいますが、幼児体験が影響していたり、広い教養を身につける中で育って行く部分もありそうです。
広報担当者に求められる資質の中で、なによりも大切だと考えているのは「感じのよさ」です。好感の持てる人が広報にいると、記者はもちろん外部の人たちから好感を持たれます。それは企業の好感度に必ず結びつきます。逆に、へんな会社には感じの悪い広報担当者がいます。これは経験上間違いありません。
「感じのよさ」はどのようにつくられるのか。全くわかりません。その人の内面のさまざまな要素が関係しているのだろうと想像しますが、外面における重要な要素の一つは「笑顔」ではないでしょうか。笑顔がよい人は感じがよい、と思いませんか。一例を挙げれば、オリンピックの東京招致で最終スピーチをした佐藤真海さんでしょう。
では、笑顔がよくない人ってどんな人でしょう。とてもよい例がありました。写真(変形してます)からご想像ください。この人もオリンピックがらみではありますが。〈kimi〉
代名詞化される商品は
「彼女の発言、テープに取っておいてよ」などと何気なく言ってしまいますが、録音にテープに使わなくなってすでに久しい。それでも「テープ」と言ってしまうのは、録音はテープにするものだ、と頭にしみ込んでしまっているからでしょう。
先日、ご高齢のジャーナリストの方々とお話していたら、いまもってカセットレコーダーを使用しているとのこと。テープは回っているのが見えるから安心なんだ、というのが愛用の理由だそうです。その気持はよくわかります。メモリーは見えません。「テープを回す」がいまも通じるのは、案外そんな理由なのかもしれません。
そう言えば、と思い出したことがあります。いずれもよく知られている事例なのですが・・・。
80年代くらいまでは「コピーとってください」とは言いませんでした。「これ、ゼロックスしておいて」がふつうでした。その頃はゼロックスが圧倒的なシェアを持っていましたが、その後他社もシェアを伸ばしたので、「ゼロックス」はコピーの代名詞ではなくなってしまいました。
もう一つ、「スリーエム」というのを思い出しました。スコッチテープやポストイットの3M社のことです。米国人や米国かぶれをした人たちが、オーバーヘッドプロジェクターをそう呼んでいました。「オーバーヘッドプロジェクター」では長すぎます。その後は「OHP」という略語が一般的になっていました。3M社は、装置もさることながら、OHPシートが大きなビジネスになっていたようです。いまや企業ではほとんど見かけなくなりましたが、大学などではしぶとく生き残っているようです。
「ホッチキス」も似た運命をたどりつつあるのだろうと思ったら、これはもう普通名詞になっていて、NHKも「ホッチキス」と言っているんだとか。ステープラーなんて言うとちょっとキザに聞こえますね。
このほか味の素、シャープペンシル、セロテープ、エレクトーン、ウォークマン、バンドエイド、万歩計、宅急便などの例が思い浮かびます。いまも代名詞化が現在進行形で進んでいる商品があるに違いありません。それは何か。オリジナリティーが高く、圧倒的シェアを占めつつある商品を探しているのですが、どうにも思いつきません。〈kimi〉
広報は点描である、ということについて
点描という絵画技法があります。スーラの絵で有名です。一つひとつの点を見ても、黒だったり赤だったり青だったりその中間色だったり。意味はほとんど見出せませんが、それらを集合としてみたとき、初めて目指す姿が浮かび上がってきます。それが広報活動のあり方とよく似ていると思えるのです。
昨日のプレスリリースも今日の記者発表も明日の取材も、それなりの意味はあっても、大きな広報目標から見ればカンバス上の一点に過ぎません。そのような点を日々着実にテンテンと打って行く作業を繰り返す。そして、ある時点で振り返えって見ると、目標とする一つの画が描かれている、それが一つの理想ではないか、というふうに…。
IRの分野にはうまい用語が存在します。「モザイク情報」がそれです。企業の業績や将来価値に大きな変動を与えるとは思えないような情報、適時開示規則上の軽微基準に該当するするような情報をそう呼ぶのです。ところが、そのような何気ない一片の情報を集めて分析すると、企業の実像やその方向性がモザイク絵のように浮かび上がってくるというわけです。
IRでは、企業側が意識的に画を描くというよりも、個別の事象や案件が発生するたびに発信されたランダムな情報から、アナリスト側が一つの画を見出すというニュアンスですが、広報活動としては、それを意識的にやってみてはどうか、と思うのです。それには、あらかじめ描くべき大きな目標をしっかりと立てておく必要があります。
たとえば研究開発に優れた企業であると認知してもらうことを広報の目標とする会社なら、研究開発に関する情報をどんどん発信し、取材を受けるようは活動を続ければ、数年後には目標の姿にかなり近づくことができるでしょう。
そんな簡単なこと…と思われるでしょうが、それがなかなか難しいのです。研究ネタが見つからないということもあるでしょうが、やっと見つけたネタでも、そんなつまらない情報をなぜ発表するのだ、という開発サイドからの反対に会うことも少なくないからです。
そんなときスーラを思い出してほしいのです。一つの情報はそれほどインパクトの強いものでなくても、それらの点が集まれば画が描けるのだということを。。〈kimi〉