正義の実現は難しい

江戸川橋交番前で

集合は江戸川橋の交番前。アマチュア写真愛好家向けの撮影会です。
そこから目白通りを西へ向かい。坂を上って椿山荘前から丹下健三氏設計の聖マリア大聖堂の構内へ入って撮影。その後、休館したままの講談社野間記念館を通過して永青文庫、肥後細川庭園などを撮影しつつ神田川沿いの道に下りてきました。途中の児童公園に左右対称の大きな滑り台がありました。小学生くらいの姉妹が滑り台に駆け上がったり駆け下りたりして遊んでいます。格好の被写体です。メンバーの何人かがカメラを向けました。
そこを通り過ぎてぶらぶら歩いていたら、グループの横を追い越した中高年女性が先頭を歩いていたメンバーに話しかけました。女の子の下着を写した人がいる、という抗議だったそうです。そんなものを写すわけがないと、何人かが反論すると、足早に遠ざかりつつ背中越しにスマホを高く構えました。私たちを撮影しているのは明らかでした。
いやな気分でスタート地点の交番前へ戻ると、二人の警官がやってきました。先ほどの女性が駆け込んだのは、その交番でした。
デジタルカメラは便利です。その場で撮影した写真を警官に見てもらいました。メンバー構成は50代から80代、女性も一人含まれています。撮影会のコースを事前に印刷した案内パンフの用意もあります。心にやましい人間がよりによって交番前に集まるはずもありません。どこから見ても怪しいところはありません。
というわけですぐに嫌疑は晴れたのですが、収まらないのはこちらの方です。女性が撮った写真を、妙なコメントをつけてSNSなどに投稿されてはたまりません。スマホに残っている写真は削除させてほしい、と警官に要請しました。
験直しとお清めをしようと居酒屋に入ったところで、主催者のスマホに交番から電話がありました。スマホの写真はすべて削除させたとのこと。これで一件落着ではありますが・・・。
交番に駆け込んだ中高年女性の意図は何だったのでしょうか。義憤にかられたのでしょうか。結果としては、私たちばかりなく、その女性にもいや~な後味が残ったはずです。いつの世にも「正義の味方」はいてほしいのですが、正義というものはそれほどたやすく実現できるものでもなさそうです。


これが私が撮った写真。二眼レフでフィルムのモノクロ。パンツなんか写っていませんよ(笑)

実用文も文学も

8月17日付の朝日新聞「天声人語」を読んで、初めて高校の国語で「文学」が選択科目になることを知りました。代わりに実用文として行政のガイドラインや駐車場の契約書が出てくるのだとか。
行政のガイドラインが実用文の模範例かどうか大いに疑問ですが、これまで日本の国語教育において実用文が不当なくらい軽んじられてきたことを考えると、これは悪いことではありません。企業にいた頃、主任や課長への昇進試験の「小論文」をたくさん読まされましたが、9割ほどは日本文を書く基礎がまるでできていませんでした。しっかりした文章が書けるような教育はとても重要です。欧米ではすべての課目のベースとしてwritingやécritureが重んじられていると聞きます。問題はそれを教えられる先生がいるのかどうか、ですが。
蛇足ながら、実用文の一典型はプレスリリースではないかと考えています。ぜひプレスリリースを書く練習をしてほしい。間違いなく有益です。
一方で、文学を選択科目にするという暴挙には絶対反対です。先日、某放送局の敏腕ディレクター氏が米国へ取材旅行に行くに当たり持参する5~6冊の本をSNSで公開しているのを見ました。その中に小説は一冊もありませんでした。「勉強熱心」なのは結構ですが、この方の10年後を思うと、かなり残念な気がしたのであります。

死んだ男の残したものは

数日前から、谷川俊太郎作詞、武満徹作曲のこの歌が耳の底に流れるようになりました。最近、この曲を聴いた覚えはありませんが、なぜなのでしょう。
8月15日が近づいたから? その可能性は否定できません。無意識のうちにどこかで戦争に関連した話題として耳にしたのかもしれません。しかし、耳の底にこびりつくようになったのは、歌そのものの力であるような気がします。
そぎ落としそぎ落としした強い骨のような谷川俊太郎の言葉。一度聴いたらもう逃れることのできない武満徹の曲の力。そして、反戦歌の枠にとらわれない人間への問いかけでもあるから。

日韓問題とネコ問題

最近の嫌韓、韓国バッシングと反日、抗日は少々度を超しているようです。どちらが悪いのかウソを言っているのか、そんなことはわかりません。双方とも政治的プロパガンダが激しいので、報道を注意深く読み込んでも真実を把握することは不可能に近い。広報を仕事にしているからには、両国のプロパガンダを冷静に見極めたいところですが、昨今はそのような一歩引いた立場さえ批判の対象になりかねません。いまの政権に批判的な発言は激しい批判にさらされ、その対象が拡大しつつあるようにも感じられます。
さて近頃、ネコ好きの人が多くなったと思いませんか。SNSでも、私の場合だけかもしれませんが、愛猫やらノラネコやらの写真を連日見せつけられます。法整備が進んだこともあり、動物愛護の精神が普遍化しつつあることも背景にあるのでしょう。私自身は子どもの頃から動物を飼った経験が少なく、ネコにもイヌにも小鳥にも馴染みが薄いのですが、動物愛護には大賛成です。
問題はここからです。私はネコが好きではありません。しかし、そのように言いにくい雰囲気が、いまの日本にまん延しているような気がします。ネコ好きから大顰蹙を買うばかりでなく、非猫民と厳しく批判されそうな恐怖さえ感じます。
日韓問題とネコ問題、どこか似ていると思っているのは、たぶん私だけでしょうね。

落ちてきた「反省文」

乗換駅で網棚からバッグを引きずり下ろしたら、A4を丁寧に三つ折りした紙が一緒に落ちてきました。ちょっと開くと「反省文」という見出しが見えたので、そのままバッグに放り込んでしまいました。
ワープロ打ちされた「反省文」を読んでみると、これを書いた人は、どこかでケンカをしてしまったようです。発端は、本人が他人の迷惑になるような行為をしてしまい、相手から「パンチ」を食らったこと。その結果として逮捕、公訴されるに至った、それを反省しています。
反省文には、多様な人たちが住む都会では周囲の人間や環境が気になっても、常に自分のことに集中し、徹底的に非暴力を貫き、社会や人様に迷惑をかけることのないよう努めたいとあります。また、もっと幸福な精神状態で健康な身体でいたら、そのときの相手の心境にも思いを致すことができ、殴られるようなことにはならなかっただろうとも書いています。文章に破綻がありません。反省文を読む限り、至極真っ当な人のように思えます。一時の気の迷いから起こった事件なのでしょう。
さて、この「反省文」をどうしようか、と考えました。自署もありますが、それだけで書き手を特定することはできません。特定できたとしても、これをお返しすることはかえって恥をかかせるようにも思います。網棚から落ちてきたときに、またもとの場所に戻した方がよかったか。そうとも思いません。私以外の誰かが、同じように読むだけのことです。警察や駅に届けるのは、かえってこれを書いた人のプライバシーを拡散させることになるでしょう。
ここに経緯だけを記して、シュレッダーにかけることにします。

不機嫌な床屋

写真は本文とは関係ありません。

床屋に行きました。10年来通っていたカット・シャンプー・顔剃り2000円也の床屋が再開発とかで突然消えてしまったので、同じような値段の店をようやく探し当てたのです。10席ほどの大きな店です。幸い待っている人がおらず、ほどなく席に案内されたのですが、何か雰囲気が気になります。実に静かです。その上理容師たちの人相が悪い・・・いや表情が暗い。担当になった女性理容師は無愛想な上に少々手荒です。たまたま虫の居所が悪かったのでしょうか。とにもかくにもご機嫌が悪い。こういうときは黙って、されるがままにされているより仕方がありません。何しろ向こうは刃物を所持しているのですから。
頭を下げながら観察していると、部屋の隅まで掃除が行き届いていないことに気づきました。髪の毛が洗面台の角という角に溜まっています。昨日今日という量ではありません。
タオルで顔を蒸されていると、頭の向こうで理容師同士コソコソ話をしています。どうやら新入り理容師の態度が悪いと言い合っているようです。二人ともかなりのご立腹です。それで機嫌が悪いのかもしれません。
やっかいな床屋に来てしまったものです。利便性がよくて安い床屋はそうそうありません。また探すのか、と思ったらすっかり憂鬱です。新たな店を探す面倒を考えたら、不機嫌でも掃除が行き届かなくても、またこの店に来るという選択肢もあり得ます。どうししたものかなあ。

乗り気になれません

1964年、どうしてもオリンピックを見たい、見逃したら一生後悔すると思い詰めて、新宿三丁目の交差点にいまもあるJTB(当時は日本交通公社)にチケットを買いに行きました。すでに発売から日が経っていて、売れ残っていたのは人気薄の競技ばかり。その中からホッケーのチケットを1枚買いました。
ところが開会式間近となって、その試合に出るはずの国が棄権だったか来日しなかったか、どちらにしても試合は中止となりました。これでオリンピックを見るチャンスは失われてしまいました。
大会中は休校になったのかどうか記憶にありませんが、白黒テレビでマラソンを見ていたら、そのコースは甲州街道。自宅からそれほどの距離ではありません。いまから行けばアベベや円谷が見られるかもしれない。「オリンピックを見た」ことになると急に思い立ち、闇雲に走り出しました。しかし、半分ほどのところであきらめました。中学生が思っていたより甲州街道は遠かったのです。
さて、来年のオリンピック・パラリンピック。56年前の中学生と同じような気持になっている人もいるでしょう。経済的に潤う人たちが存在するのは間違いありません。しかし、多くの予算を費やし、多くの人たちを動員し、交通を渋滞させ、メディアを巻き込み、テロのリスクを増大させることが、どれほどこの国に住む人たちの将来の幸せに貢献するのか、さっぱり理解できません。広報を仕事としている以上は、お祭り騒ぎに乗じて多少のおこぼれにあずかろうとするのが当然かもしれませんが、あまり乗り気にはなれません。普段見慣れない競技を会場で見るのも悪くないなとは思うもののチケット購入にもいまのところ積極的に動いてはいません。
先日テレビを見ていたら、どこかの大学教授が、来年のオリンピックやパラリンピックは「第二の開国」になると言っていました。能天気もいい加減にしろ、と言いたくなりました。

年金事務所へ行ってきました

ガラガラの待合室ですが・・・

老後に一定水準の生活をするには年金だけでは足りず2000万円の貯蓄が必要だ、それでは年金の意味がないじゃないかと大騒ぎになっている中、ちょっと用があって年金事務所へ行ってきました。
社会保険事務所と称していた昔から、この役所は国民を何時間も待たせて涼しい顔をしています。それでもいくらかは改善する気があるようで、電話による「予約相談」を受けつけています。そこで試してみましたら、つながらないつながらない。高齢化が進んでいる日本では年金の相談をしたい人は急増しているでしょうから、それもやむを得ないところがあります。
問題はようやくつながった電話に出てきた担当者です。どういう内容の相談かと根掘り葉掘り聞き出そうとします。個人情報ですから、できれば話したくありません。話したところでその人が相談に乗ってくれるわけではありません。しかたなく相談内容を告げると、そうですかあ?と不思議そうな声を出します。そんなに珍しい相談なのですか?と問うと、ムニャムニャ言っています。その挙げ句に予約がとれないのですから、少々腹が立ってきました。もちろん論理的ないし統計的に、これは年金機構のすべての担当者の問題ではありません。たまたま電話に出た人の問題です。
さて、こうなったら年金事務所へ行ってしまった方がよかろうと判断しました。
週日の午後です。駐車場はガラガラです。待合室もガラガラです。シメシメと受付へ行ったら、再び相談内容を聞かれた上に、「予約はしてないんですか?」とのこと。「何度電話をしても予約がとれないんです」と告げると、困惑したような表情を浮かべ、できれば予約して出直してほしいと言うのです。「いや待たせていただきます」と毅然として(と見えたかどうかは別として)宣言しました。 すると「2時間はお待ちになると思います」とのこと。これはもう受付を拒否しているようなものです。表示板を確認すると待っているのは3人にすぎません。「いえ、外出されておられる方もおられるので・・・」と、居座られては迷惑だといった口ぶりです。 もちろんこれも論理的ないし統計的に、年金機構のすべての受付担当者の問題ではありません。たまたまこの受付の方の問題です。
その結果、1時間弱の待ち時間で「相談」に応じてもらえました。相談の担当者の方の対応はソフトで手際がよく、問題はめでたく解決いたしました。しつこいようですが、これは年金機構のすべての相談担当者に言えることではありません。たまたまこの人がよかったのだろうと思います。

うまいもんが食いたいなあ

この3日ほど、東京ビッグサイトで仕事をしています。たまにはこういう異空間に身を置くのも悪くはありませんが、ちょっぴり悩ましいのは昼食です。構内にはいくつもレストランやカフェテリアがあります。コンビニもある。有名コーヒーチェーンもある。少し足を伸ばせば、周辺のオフィスビルに入っている飲食店も利用できます。にもかかわらず、昼時になると「さて、どこで何を食べようか」と悩むことになります。
理由は混むことと旨くないこと、この2点につきます。
このあたりの飲食店は、どこか「こんなもんでいいでしょ。それでも客は来るんだから」と考えているかのような、取り柄のない店ばかりです。新しく造成された土地柄だけに個人経営の店は見あたらず、ほとんどチェーン店ばかりであることがその一因でしょう。
しかたがないので、業績不振が取り沙汰されている家具店が入っているビルに出かけて、1日目は照り焼き丼、2日目はぶっかけうどんに鶏天、3日目はコクうま味噌らーめんということになりました。もちろんすべてチェーン店。もうあきました。

メディアの偏向

市民間で意見が割れるような問題について、新聞やテレビなどのメディアがどちらに組みして報道しているか。なぜこちら側に同情的なのか。以前と異なる報道が出て来たり、新しい事実が次々に明らかになってもなかなか論調を変えないのはなぜなのか。と思うと、口を拭って沈黙しつづけることもある。それはなぜなのか。
政治に関してはむしろ単純です。近頃は大手メディアの旗幟が鮮明になっていますから、ある新聞は大きく報道しある新聞は黙殺していても、はは~んと推測できる。こんな報道姿勢をとるだろうなあと読む前に予想がつくほどになっています。考えてみればつまらない話です。新聞が読まれなくなった要因の一つでしょう。
そんなとき、よい本が出版されました。小島正美著「メディア・バイアスの正体を明かす」(エネルギーフォーラム新書)
小島さんは昨年まで毎日新聞で編集委員を務めておられた医療や食品問題を専門とするジャーナリストです。ここには右や左の政治のことは書いてありません。子宮頸がんワクチンや遺伝子組換え食品などを例に、なぜ新聞がこのように書くのか、このように書かないのかを極めてクリアカットに説明しています。新聞社を退職されたので自由に書けたという面もあるのでしょうが、すべての新聞記者OBがこのように書けるわけでもありません。報道の内側にいて、「これはおかしいじゃないか」という問題意識を常々持ち続けておられたからこそ書けたのだと推測します。広報を仕事をしている人にも、目を開かせてくれる好著です。