意味の転換

「おかしい」と言えば、現在では「変だ」とか「奇妙」だということですが、その昔は「趣がある」という意味だったそうです。高校の古文の授業で習った枕草子の「いとおかし」がそれですね。このように、それまで好ましい意味だった単語が、ある時から逆転してネガティブな意味に変じてしまうことが、まれに生じるようです。
そのような珍しい変化、しかも突然の意味の転換を私たちは最近実感してしまいました。「育ちのよさ」です。
以前から「あの人が育ちがいいからねえ」という表現には、どこかに皮肉と妬みのニュアンスが隠れていました。下々のことを理解していない、周囲の状況が読めない、自ら汗を流そうとしない、苦労知らずの経験不足、他人事のような態度、精神がひ弱、身体が弱い、そして、いざとなったらどこかからお金が出てくる、といったモロモロをぼんやりと含意していたわけです。その含意が、時の総理によってすべて明るいところに引き出され、しっかりと意味づけられてしまいました。同時に、上品とか質のよさといった「育ちのよさ」の好ましいイメージは、まとめて闇に葬られてしまいました。
昨日、鳩山総理は沖縄県知事と再び会談しました。asahi.com(2010年5月23日)によれば、総理は突っ立ったまま 「仲井真知事はじめ、県庁の皆様方に、このようにふたたびお目にかからせていただくことができて、たいへんありがたく思っております」と話し始めたようです。これって、なんか変ですね。以下、
県知事:おかけいただけませんか。どうぞ、どうぞ
総 理:それも失礼かと
県知事:いや、どうぞ
総 理:では座って恐縮でございます。
というやりとりが続いたそうです。写真で見ると、さして広くもない応接室で低いテーブルをはさんで対座しています。陳謝しつつお願いをしようとしているのに、見下ろしながら話始めるっていうのはどうでしょうか。ここらあたりに「育ちのよさ」の問題がまたまた露見してしまっております。
米国の大統領は必ずメディアトレーニングを(候補者になったときから)受けていると言われます。日本の総理大臣は受けてない、なんてことがあるんでしょうかね。もちろんそれ以前の問題なのではありますが。〈kimi〉

書けない

文筆業をしている友人からメールをもらいました。ある企業から入社試験の論文審査を依頼されたのだが、書くことを訓練された人が少ないことにすっかり驚いたとのこと。彼によると、文章の構成といった高度な話ではなく、段落行頭一字下げ、タイトルと本文の間を空ける、という基本的なルールを知らない人が多い。「為」とか「夫々」など、ひらがなで書けばよいものを漢字で書く人が多い。「ひいては」とすべきところを「しいては」と誤っている例が複数あったとのことです。(筆者注:このココノッツブログでは、広告コピー風に意識的に行頭を下げておりません)
私は驚きません。企業に勤めていたとき、入社試験や主任、課長への昇任審査を毎年のようにやらされました。何十編という「論文」という名の作文を読んでいると、実に気分が滅入って来たものです。友人が指摘している通りの状況ですが、より失望したのは、何を言いたいのかさっぱりわからない作文が半数以上を占めていることでした。そもそも自分の考えがないらしいのです。入社できたらがんばります、昇任したらもっとがんばります、と会社にアピールしたい。そういう思いが込められていることは伝わって来るのですが、だからと言って、鋭い視点や画期的な具体案を持っているわけではありません。精神論と抽象論ばかりの作文が出来上がります。何編読んでも似たようなことが書いてあります。そんな退屈な作文を続けて読まされている中で、たまに論旨がしっかりした文章に出会うと、梅雨の晴れ間のような気分になったものです。よし、合格!
このような文章力不足は、中学、高校の教育に責任があると推測しています。国語の授業で五段活用を教えるのもよろしいし、言文一致体の先駆けが山田美妙であることを教えるのも結構ですが、文章のトレーニングをしなければ生徒は文章が書けるようになりません。英文法や英文解釈をいくら教えても、英語が話せるようにならないのと同じことです。
そもそも文章を書くトレーニングができる国語の先生は少ないでしょう。迷いながら書いた作文に「よく観察できました」なんて赤ペンでほめてもらっても、文章力はつきません。論理的に思考を組み立てる方法と、それを書き表す技術が、社会生活には不可欠です。企業のニュースリリースを読んでいても、何がニュースなのか理解しがたい文面にときどき遭遇します。まともな文章を書くことはコミュニケーションの基本です。
なんて、偉そうなことを書いてはおりますが、ン十年前、就職して初出社したその日、社内への連絡文書を書けと命ぜられて、一行も書けずに立往生してしまった経験があります。ビジネス文の書き方など、小学校から大学まで教えられたことがありませんでした。
先日、教授に転身された元新聞記者氏に「大学では何を教えているんですか」と質問したら、「作文の書き方からですよ」という答えが返ってきました。「大学で作文の練習ですか」と、そのときは少々呆れたのですが、現状をよく考えてみれば、大学で作文を教えてもらえる学生は幸せというものなのでしょう。〈kimi〉

大工さんの教え

 今日は大型連休の真ん中です。こんなときにブログを書いてどうするんだ、とも思います(ココノッツブログは業務の一環として書いております)が、まあ、そんなカタイことは言わずに・・・というわけで書き始めました。しかし、これは実に考え物ではあります。
 子どもの頃、家の改修に来ていた大工さんは、正午になると弟子たちに声をかけて一斉に仕事をやめてしまいました。お弁当を使い、正確に1時までお茶を飲んでおしゃべりをしていました。
 なぜやりかけの仕事を放り出してまで時間を守って休憩をとるのか、子ども心にも不思議に思って大工さんに聞いてみました。どんな表現で質問したものか覚えてはいませんが、返ってきた答えは、時間をきっちり決めて休みをとらなければ疲れをとることができない、疲れたままで仕事をしてもよい仕事はできない、それが長く仕事を続けるコツだ、といったものでした。
 若いときの私は、この大工さんの考え方に従って、昼休みはいっぱいいっぱい自分の時間として使いました。業務時間内にできるだけ仕事をすませて、残業をしないように心がけました。しかし、残業手当がつかなくなった頃から、それが崩れ始め、昼食を食べ終わったらすぐやりかけの仕事に戻り、給料に反映しないにもかかわらず残業をし始めました。
 いまココノッツでも一部に残業が日常化しています(私はあまりやりませんが)。休日にも自宅で仕事をしたりメールを出したりしています(私もやっています)。お客様にできる限りのサービスをしようと考えると、ついついそうなってしまうのです。
 それがよいのか悪いのか、俄には判断しかねますが、やはり休みはちゃんととった方が長期的にはよいのではないかと考えています。働きすぎて病気になってしまったら、かえってお客様にご迷惑をおかけすることになりますし、休日の自宅仕事が効率がよいとも思いません。
 以前、日本企業に勤めていたとき、毎日残業毎週休日出勤で、一体いつ休んでいるんだろうと思うような人が何人もいました。その仕事熱心さには感服してしまうのですが、そういう人たちほど世間に疎い、視野が狭い傾向があることに気がつきました。もっとも、あんまり働かない社員が広い視野を持っているとも限りません。このあたりは誠に難しい。
 しかし、休みというものはただ疲れ休めに寝ているわけではありません。時間の余裕があれば、人間はいろいろなことをし始めます。自分の時間を豊かに使うことは、人間としての成長によい効果をもたらすだろうということは、確信に近いものがあります。
 休まなければよい仕事はできない、という大工さんの言葉はやはり真実ではないかと思うのです。というわけで、今日は自分の時間を有効に使おうと思います。〈kimi〉

目のつけどころ

友人からメールをもらいました。共通の友人であるE君が俳優の阿藤快に似ていると思わないか?という呑気なメールです。なに故、突然そんなことを言い出したのか皆目見当がつきません。おかしな男です。
私はE君が、阿藤快に似ているとは思いません。私が、E君にそっくりだと思っているのは作家の立原正秋と俳優の綿引勝彦です。これはE君自身も認めるところ。しかし立原正秋と綿引勝彦の顔を比べると、これは全く似ていません。
世界的なチェリストのヨーヨー・マに似ている日本人を私は二人知っています。お一人はさるノンバンクの幹部の方、もうお一人は医療機器会社の人事部長さんです。お二人とも、ヨーヨー・マに似ていると言われたことが何回もあるとのことで、自他共に認めるヨーヨー・マ似です。しかし、ノンバンク氏と医療機器会社氏が、もし顔を合わせたら互いに似ているとは認識しないかもしれません。
A≒B、A≒C、B≠Cです。三角形は成り立たず、二辺だけが有効です。A氏とB氏の特徴が一致しているのは顔の上半分。A氏とC氏の似ている部分は下半分だとしたら、B氏とC氏は似ていないくて当然ということなのでしょう。
メールの差出人は、E君のどこかの特徴を阿藤快に見出した。それが私の目のつけどころと異なっているので、私の目にはちっとも似ていないと映ります。
一つの事実に対して、人によって見方が異なることはよくあることです。同じものを見ていながら、それぞれが別の側面を強く認識してしまうと、お互いに他の認識を受け入れがたい。コミュニケーションギャップは、こういうところからも生まれるのでしょう。(文中敬称略)〈kimi〉

ただの道具

軽くて小さいノートパソコンを買いました。これまでは記者会見やセミナーなどでパワーポイントを映すのに、私の個人所有のノートパソコンを使ってきました。いまだ十分に使える性能ではあるものの、dog yearの世界においては少し古めかしくなっていました。
この仕事、休日や夜間に自宅で作業をしたりメールを出したりすることが結構あるのですが、それを1台だけでまかなうのにはリスクがあります。万一トラブルが発生したらお手上げです。そこで予備に10年前のノートパソコンを1台置いていたのですが、スイッチを入れてから立ち上がるまで日が暮れそうだし、負荷の大きい処理をさせると、その間にビデオが1本が見られるし、実用性をほとんど失ってしまいました。
そんなわけでご老体は1000円で売り払い、会社から自分の1台を自宅に戻し、会社で仕事に使うノートパソコンを新規購入という玉突きをしたわけです。
しかしまあ、新しいパソコンというのは世話が焼けますね。パソコンが道具である以上、自分の手になじむようにしなければ使い物になりません。その作業だけで正味2日を要します。ソフトがなければただの箱とはよく言ったもので、あれも買わなければ、あれもインストールしなければ・・・と、パソコンの購入費のほかにソフト代もバカになりません。
この土日、そんなことをしていたおかげで、私が仕事をする上で最低限必要なソフトが判明しました。
1)Word
2)PowerPoint
3)Excel
4)Photoshop
5)Acrobat Pro
米国のソフト屋さんの戦略に乗せられているような気分ではありますが、これらがなければまったく仕事になりません。そのほか日頃愛用している
6)Tunderbird
7)Firefox
も入れたい。IMEも使い慣れたATOKにしたい(これは国産ソフト)。あとはあれば便利というソフトをいくつか。
思い起こせば、こんな作業が楽しかった時代がありました。あの頃のパソコンは魔法の箱でした。それがただの箱、ただの道具となってしまったいまでは、この作業は苦痛以外のなにものでもありませんでした。いまや新しいパソコンを買っても、性能こそ向上しているものの、できることには大した違いがなくなってしまったからです。次に私たちをワクワクさせてくれる道具は一体いつ生まれるのでしょうね。〈kimi〉

何だかわからん

先日、友人の某大学教授が演出する前衛演劇を鑑賞してきました。エンターテイメントを目指さないと演出家自身が公言しているくらいですから、楽しく観劇というわけにはまいりません。話の流れもよくわからず、なぜそこで叫ぶのか、なんでそのような身体の動かし方をするのか等々、脳味噌の中で疑問符が連打されるうちに1時間15分が経過しました。
いわゆる「ゲイジュツ」においては、それを見て、あるいはそれ聴いて、何らかの感応が得られればそれでよい、という誠に身勝手なことがときに称賛されたりします。それも一種のコミュニケーションではありますが、送り手が意図した内容を正確に受け手に伝達するということは、必ずしも目的とされていません。だから、何が何だかわからないうちに芝居が終わってもよろしい、ということになるようです。
広報の世界では、もちろんそれは通用しません。伝えたい内容は、より正確に相手に伝わってほしい。そして理解してほしい、納得してほしいというのが広報です。そのような世界に長年身を置いていると、何だかわからん前衛演劇の世界が新鮮であると同時に、どこか割り切れない気持にもなってきます。
このところ、何だかわからんうちにリコールされたり社長が交代したり、ビジネスの世界でも何だかわからんことは決して少なくないのではありますが。〈kimi〉

切れた靴ひもと神社に運ばれたライオン

織田選手のスケート靴のひもが切れました。新しい靴ひもは伸びるのでしっくりこない。それで切れ掛かった靴ひもを使っていたそうです。大仕事の前には何度もチェックをして、リスクをできるだけ洗い出すのがビジネスの世界では当たり前のことです。
三味線の糸も、靴ひもと同じように新しいとどんどん伸びます。演奏中に伸びると音程下がってしまいます。発表会に臨んでは、切れるリスクがあっても伸びにくい使い込んだ糸を使うか、音が狂うのを承知で新しい糸に張り替えるかというジレンマに陥ります。三味線の師匠によれば、発表会の日の朝に新しい糸を張って、演奏までの時間をつかって糸の伸びを取るのだそうです。立派なソリューションです。織田選手にもそのくらいの配慮が必要だったのかもしれませんが、ここ一番というときに慣れ親しんだ感覚を大切にしたいという気持もわからないではありません。理をとるか情をとるか、まことに難しい問題です。
隅田川をはさんで浅草の向かい側、向島に三囲神社という古社があります。ここに狛犬ならぬライオンが鎮座しています。そのライオン、実は三越池袋店の入口に鎮座していたものです。三囲神社は、越後屋呉服店の頃からずっと三越と関係の深い神社なのだそうで、その縁でここに運ばれて来たようです。
しかし、ちょっと待てよと、場違いなライオンを見ながら考えました。池袋店は業績不振で閉めたはずです。多くの社員が心ならずも去らなければならなかったたはずです。一方、店の入口から撤去された大きくて重いライオン像をここまで運んで据え付けるには、それ相応の経費がかかったはずです。それって少々おかしくはないか、と連れの友人に問いました。すると友人は「三越にはライオンへの強い思いがあるのだろうから、いいじゃないか」と答えました。周囲の何人かにも同じ質問をしてみましたが、友人と同様の意見が多かったのは意外でした。理をとるか情をとるか、まことに悩ましいことです。
たまたま今週号の日経ビジネス誌は「三越伊勢丹の賭け」という特集です。贅沢という情の世界で商売をしてきたデパートの苦悩はまだまだ続きそうです。〈kimi〉

多読あるいは読書自慢について

新社長を紹介する新聞のコラムを読んでいたら、「年に100冊超の乱読」なんて書いてありました。
読んだ本の数を自慢しても意味がないというのが、読書家でない私のかねてからの主張(兼自己弁護)です。量よりも、何を読んだか、読んでどう考えたかということの方がよほど重要ではないか、という考えです。
しかし、どう考えたかは簡単に表明できません。社長が読書感想文を書くわけにも行きません。一方で、ビジネスマンは何事も数字で示せと若いときから教育を受けています。社長になるようなエリートはなおさらです。そこで何冊読んだ、ということになりがちなんだろうなあと、新社長のコラム記事を読みながら考えました。
友人にも本に関しては絶対に負けられない、という人間がいます。ビジネスマンではないので定量的には表現しません。名著の話題が出ると、それは中学のときに読んだ、あれは高校生のときに通読した、と必ず自己の優位性を表明します。古今東西、読んでない本は存在しないかのような勢いです。あんな難しい本を中学生が読むだろうかと思わなくもないのですが、そこを追求しないのが友情、あるいは武士の情けというものです。最近出版された本に関しては、さすがに中学生のときに読んだとは言えないので、すぐに読んで、その報告が入ります。誠にご苦労様なことです。
先日のことですが、ある英会話のテキストが話題になりました。数日後、彼からメールが届きました。初級編、中級編、上級編全3冊を読了したそうです。それって、なんか変じゃないですか?〈kimi〉

腰パンと企業の論理の関係

先日駅のエスカレーターに乗ったときのことです。前にいた男子高校生が盛んにズボンを気にしていました。てっきりズボンをたくし上げるのかと思ったら、意表をつかれました。彼はズボンを下げたのです。すでにベルトの位置は十分腰骨の下にあるにもかかわらず、です。
スノーボードのオリンピック選手が、ユニフォームのズボンをずり下げて空港に現れたと非難されています。私は実に寛容です。異なる価値観を受け入れることを基本としてこれまで生きてまいりました。だから高校生もスノボの選手もどうぞご自由に、といったところです。
しかし、少々気になることがあります。スノボの選手はストリート系ファッションが好みと報じられていますが、ズボンを腰骨より下げるのが、ストリート系ファッションなんでしょうか。若者のファッションに疎くなってしまったので自信はありませんが、ちょっと違うのではないか、という気がするのです。以下、独断と偏見で。
腰パンはサギー・パンツという米国輸入ファッションと言われていますが、日本の場合は、それとは異なる背景があるような気がします。近頃すっかり見かけることが少なくなった着丈の長い学生服、いわゆるガクランの流れです。これを戦前の蛮カラと結びつける説明もありますが、信用しかねます。蛮カラは、現在とは異なる階級意識のもとで、エリート層の内部での反骨精神の発露だったのです。ガクランや腰骨ズボンは、社会的エリートとは対極の存在でしょう。
スノボの選手もエスカレーターの高校生も、彼らの属している集団の中でのカッコよさを目指しているのでしょう。その小さな集団の中で評価されることに、価値観を置いているのです。その意味では、蛮カラもガクランも腰骨ズボンもまったく同じ種類の自己表現です。
これは企業社会にも当てはまります。いわゆる企業の論理というものです。自動車会社の論理が消費者の意識とズレていると、これまた批判を受けていますが、それとスノボ選手のベルトの位置はどこかでつながっているのではないでしょうか。遠い親戚なのだと思えてなりません。〈kimi〉

ちょうど時間となりました

昨日は都内某所にて、正味5時間30分のレクチャーを担当しました。これだけの長時間になると、時間配分がとても難しいんです。
準備段階では、時間が余ってしまうのではないかという恐怖が先だって、ついついパワーポイントの枚数を多くしてしまいます。いざ話し始めると、今度は時間内にすべて話せるかという心配の方が強くなってきます。
回数を重ねるうちに、ある程度は伸び縮みができるようになりましたが、5時間以上ともなると、難易度が相当高い。なにはともあれ時間オーバーだけは絶対にしないように、時計を横目に突き進みました。
講演会やセミナーで、終了時間をとうに過ぎているのに悠々と話し続ける人がいますね。場内がだんだんザワついてきているのにも気がつかない。ご本人には話したい内容がまだまだあるのでしょうが、聞き手の耳にはすでにほとんど到達していません。退席しにくい雰囲気の会場だと、椅子に縛られたままこの状態を甘受しなければなりません。
ようやく長いお話が終わってほっとする間もなく、司会者が「時間は過ぎてはおりますが、ご質問がある方はどうぞ」と呼びかけます。手を挙げるなよ、手を挙げるなよと密かに念じているのに、こういうときに限って手を挙げる人がいるんですね。
その質問がまた長い。一種の演説だったりします。回答がまたまた長い。ようやく終わったと喜んだら、「他にご質問はありませんか?」とまた呼びかけるから、がっかりです。もう誰も手を挙げません。会場中が「早く終わってくれ~い」の怨念大合唱になっているにもかかわらず、司会者はじっくりと会場を見回します。この時間がとてつもなく長く感じられます。舞台に駆け上がって司会者をぶん殴ってしまいたいという衝動と戦っているうちに、長い長い講演会はお開きとなります。
そういうことが起こらないよう、昨日は途中を端折って定刻20分前に終了。それではご質問を、と会場を見回しました。
すると一番前の方が手を挙げました。「まだ20分ありますから、先ほど飛ばされたところを話してください」
リクエストに応えて、その部分の解説を加えたら、ちょうど時間となりました。長時間のレクチャーって、ホントに難しいですね。〈kimi〉