ただの道具

軽くて小さいノートパソコンを買いました。これまでは記者会見やセミナーなどでパワーポイントを映すのに、私の個人所有のノートパソコンを使ってきました。いまだ十分に使える性能ではあるものの、dog yearの世界においては少し古めかしくなっていました。
この仕事、休日や夜間に自宅で作業をしたりメールを出したりすることが結構あるのですが、それを1台だけでまかなうのにはリスクがあります。万一トラブルが発生したらお手上げです。そこで予備に10年前のノートパソコンを1台置いていたのですが、スイッチを入れてから立ち上がるまで日が暮れそうだし、負荷の大きい処理をさせると、その間にビデオが1本が見られるし、実用性をほとんど失ってしまいました。
そんなわけでご老体は1000円で売り払い、会社から自分の1台を自宅に戻し、会社で仕事に使うノートパソコンを新規購入という玉突きをしたわけです。
しかしまあ、新しいパソコンというのは世話が焼けますね。パソコンが道具である以上、自分の手になじむようにしなければ使い物になりません。その作業だけで正味2日を要します。ソフトがなければただの箱とはよく言ったもので、あれも買わなければ、あれもインストールしなければ・・・と、パソコンの購入費のほかにソフト代もバカになりません。
この土日、そんなことをしていたおかげで、私が仕事をする上で最低限必要なソフトが判明しました。
1)Word
2)PowerPoint
3)Excel
4)Photoshop
5)Acrobat Pro
米国のソフト屋さんの戦略に乗せられているような気分ではありますが、これらがなければまったく仕事になりません。そのほか日頃愛用している
6)Tunderbird
7)Firefox
も入れたい。IMEも使い慣れたATOKにしたい(これは国産ソフト)。あとはあれば便利というソフトをいくつか。
思い起こせば、こんな作業が楽しかった時代がありました。あの頃のパソコンは魔法の箱でした。それがただの箱、ただの道具となってしまったいまでは、この作業は苦痛以外のなにものでもありませんでした。いまや新しいパソコンを買っても、性能こそ向上しているものの、できることには大した違いがなくなってしまったからです。次に私たちをワクワクさせてくれる道具は一体いつ生まれるのでしょうね。〈kimi〉

何だかわからん

先日、友人の某大学教授が演出する前衛演劇を鑑賞してきました。エンターテイメントを目指さないと演出家自身が公言しているくらいですから、楽しく観劇というわけにはまいりません。話の流れもよくわからず、なぜそこで叫ぶのか、なんでそのような身体の動かし方をするのか等々、脳味噌の中で疑問符が連打されるうちに1時間15分が経過しました。
いわゆる「ゲイジュツ」においては、それを見て、あるいはそれ聴いて、何らかの感応が得られればそれでよい、という誠に身勝手なことがときに称賛されたりします。それも一種のコミュニケーションではありますが、送り手が意図した内容を正確に受け手に伝達するということは、必ずしも目的とされていません。だから、何が何だかわからないうちに芝居が終わってもよろしい、ということになるようです。
広報の世界では、もちろんそれは通用しません。伝えたい内容は、より正確に相手に伝わってほしい。そして理解してほしい、納得してほしいというのが広報です。そのような世界に長年身を置いていると、何だかわからん前衛演劇の世界が新鮮であると同時に、どこか割り切れない気持にもなってきます。
このところ、何だかわからんうちにリコールされたり社長が交代したり、ビジネスの世界でも何だかわからんことは決して少なくないのではありますが。〈kimi〉

切れた靴ひもと神社に運ばれたライオン

織田選手のスケート靴のひもが切れました。新しい靴ひもは伸びるのでしっくりこない。それで切れ掛かった靴ひもを使っていたそうです。大仕事の前には何度もチェックをして、リスクをできるだけ洗い出すのがビジネスの世界では当たり前のことです。
三味線の糸も、靴ひもと同じように新しいとどんどん伸びます。演奏中に伸びると音程下がってしまいます。発表会に臨んでは、切れるリスクがあっても伸びにくい使い込んだ糸を使うか、音が狂うのを承知で新しい糸に張り替えるかというジレンマに陥ります。三味線の師匠によれば、発表会の日の朝に新しい糸を張って、演奏までの時間をつかって糸の伸びを取るのだそうです。立派なソリューションです。織田選手にもそのくらいの配慮が必要だったのかもしれませんが、ここ一番というときに慣れ親しんだ感覚を大切にしたいという気持もわからないではありません。理をとるか情をとるか、まことに難しい問題です。
隅田川をはさんで浅草の向かい側、向島に三囲神社という古社があります。ここに狛犬ならぬライオンが鎮座しています。そのライオン、実は三越池袋店の入口に鎮座していたものです。三囲神社は、越後屋呉服店の頃からずっと三越と関係の深い神社なのだそうで、その縁でここに運ばれて来たようです。
しかし、ちょっと待てよと、場違いなライオンを見ながら考えました。池袋店は業績不振で閉めたはずです。多くの社員が心ならずも去らなければならなかったたはずです。一方、店の入口から撤去された大きくて重いライオン像をここまで運んで据え付けるには、それ相応の経費がかかったはずです。それって少々おかしくはないか、と連れの友人に問いました。すると友人は「三越にはライオンへの強い思いがあるのだろうから、いいじゃないか」と答えました。周囲の何人かにも同じ質問をしてみましたが、友人と同様の意見が多かったのは意外でした。理をとるか情をとるか、まことに悩ましいことです。
たまたま今週号の日経ビジネス誌は「三越伊勢丹の賭け」という特集です。贅沢という情の世界で商売をしてきたデパートの苦悩はまだまだ続きそうです。〈kimi〉

多読あるいは読書自慢について

新社長を紹介する新聞のコラムを読んでいたら、「年に100冊超の乱読」なんて書いてありました。
読んだ本の数を自慢しても意味がないというのが、読書家でない私のかねてからの主張(兼自己弁護)です。量よりも、何を読んだか、読んでどう考えたかということの方がよほど重要ではないか、という考えです。
しかし、どう考えたかは簡単に表明できません。社長が読書感想文を書くわけにも行きません。一方で、ビジネスマンは何事も数字で示せと若いときから教育を受けています。社長になるようなエリートはなおさらです。そこで何冊読んだ、ということになりがちなんだろうなあと、新社長のコラム記事を読みながら考えました。
友人にも本に関しては絶対に負けられない、という人間がいます。ビジネスマンではないので定量的には表現しません。名著の話題が出ると、それは中学のときに読んだ、あれは高校生のときに通読した、と必ず自己の優位性を表明します。古今東西、読んでない本は存在しないかのような勢いです。あんな難しい本を中学生が読むだろうかと思わなくもないのですが、そこを追求しないのが友情、あるいは武士の情けというものです。最近出版された本に関しては、さすがに中学生のときに読んだとは言えないので、すぐに読んで、その報告が入ります。誠にご苦労様なことです。
先日のことですが、ある英会話のテキストが話題になりました。数日後、彼からメールが届きました。初級編、中級編、上級編全3冊を読了したそうです。それって、なんか変じゃないですか?〈kimi〉

腰パンと企業の論理の関係

先日駅のエスカレーターに乗ったときのことです。前にいた男子高校生が盛んにズボンを気にしていました。てっきりズボンをたくし上げるのかと思ったら、意表をつかれました。彼はズボンを下げたのです。すでにベルトの位置は十分腰骨の下にあるにもかかわらず、です。
スノーボードのオリンピック選手が、ユニフォームのズボンをずり下げて空港に現れたと非難されています。私は実に寛容です。異なる価値観を受け入れることを基本としてこれまで生きてまいりました。だから高校生もスノボの選手もどうぞご自由に、といったところです。
しかし、少々気になることがあります。スノボの選手はストリート系ファッションが好みと報じられていますが、ズボンを腰骨より下げるのが、ストリート系ファッションなんでしょうか。若者のファッションに疎くなってしまったので自信はありませんが、ちょっと違うのではないか、という気がするのです。以下、独断と偏見で。
腰パンはサギー・パンツという米国輸入ファッションと言われていますが、日本の場合は、それとは異なる背景があるような気がします。近頃すっかり見かけることが少なくなった着丈の長い学生服、いわゆるガクランの流れです。これを戦前の蛮カラと結びつける説明もありますが、信用しかねます。蛮カラは、現在とは異なる階級意識のもとで、エリート層の内部での反骨精神の発露だったのです。ガクランや腰骨ズボンは、社会的エリートとは対極の存在でしょう。
スノボの選手もエスカレーターの高校生も、彼らの属している集団の中でのカッコよさを目指しているのでしょう。その小さな集団の中で評価されることに、価値観を置いているのです。その意味では、蛮カラもガクランも腰骨ズボンもまったく同じ種類の自己表現です。
これは企業社会にも当てはまります。いわゆる企業の論理というものです。自動車会社の論理が消費者の意識とズレていると、これまた批判を受けていますが、それとスノボ選手のベルトの位置はどこかでつながっているのではないでしょうか。遠い親戚なのだと思えてなりません。〈kimi〉

ちょうど時間となりました

昨日は都内某所にて、正味5時間30分のレクチャーを担当しました。これだけの長時間になると、時間配分がとても難しいんです。
準備段階では、時間が余ってしまうのではないかという恐怖が先だって、ついついパワーポイントの枚数を多くしてしまいます。いざ話し始めると、今度は時間内にすべて話せるかという心配の方が強くなってきます。
回数を重ねるうちに、ある程度は伸び縮みができるようになりましたが、5時間以上ともなると、難易度が相当高い。なにはともあれ時間オーバーだけは絶対にしないように、時計を横目に突き進みました。
講演会やセミナーで、終了時間をとうに過ぎているのに悠々と話し続ける人がいますね。場内がだんだんザワついてきているのにも気がつかない。ご本人には話したい内容がまだまだあるのでしょうが、聞き手の耳にはすでにほとんど到達していません。退席しにくい雰囲気の会場だと、椅子に縛られたままこの状態を甘受しなければなりません。
ようやく長いお話が終わってほっとする間もなく、司会者が「時間は過ぎてはおりますが、ご質問がある方はどうぞ」と呼びかけます。手を挙げるなよ、手を挙げるなよと密かに念じているのに、こういうときに限って手を挙げる人がいるんですね。
その質問がまた長い。一種の演説だったりします。回答がまたまた長い。ようやく終わったと喜んだら、「他にご質問はありませんか?」とまた呼びかけるから、がっかりです。もう誰も手を挙げません。会場中が「早く終わってくれ~い」の怨念大合唱になっているにもかかわらず、司会者はじっくりと会場を見回します。この時間がとてつもなく長く感じられます。舞台に駆け上がって司会者をぶん殴ってしまいたいという衝動と戦っているうちに、長い長い講演会はお開きとなります。
そういうことが起こらないよう、昨日は途中を端折って定刻20分前に終了。それではご質問を、と会場を見回しました。
すると一番前の方が手を挙げました。「まだ20分ありますから、先ほど飛ばされたところを話してください」
リクエストに応えて、その部分の解説を加えたら、ちょうど時間となりました。長時間のレクチャーって、ホントに難しいですね。〈kimi〉

けじめ

とくに秘密でもプライバシーに関わることでもないのに、こちらの何気ない質問に答えを言いよどんだり、いかにも話したくないそぶりを見せる方がいます。こういう方とやりとりしていると、さっぱり状況がつかめなかったり、どこか合点が行かない部分が残ったりするものです。慎重派。ガードが堅い。秘密主義。いろいろな表現ができると思いますが、それはそれで個性の一つですから、あえて目くじらを立てるべきものではありません。
しかし、企業で広報の仕事をしておられる方においては、これはちょっと困った性向ではないでしょうか。
取材する側からすれば、それが広報担当者自身の性格なのか会社の企業姿勢なのか、にわかには判断がつきかねます。しかし、最初に受けた秘密主義的な印象は長く心の底に残るはずです。これは会社にとって大きなマイナスでしょう。
一般論ではありますが、守りの姿勢が強い企業は、広報の担当者にもそのような性格の社員を配しているようです。さらに言えば、経営者が守りに入っているときは、その傾向が強まり、攻めに回っているときは売り込み型の外向的な方を任命するようです。
広報は会社の顔と言われます。生まれつきのご性格は変えようがありませんが、せめて話せることはちゃんと話す、話せないことは絶対に口を割らない、そのけじめだけはつけておいた方がよろしいと思います。〈kimi〉

魚長挽歌

ココノッツのもう一つのブログにココランチ“があります。創業1周年記念行事として(ちょっと大袈裟ですが)、1年間に蓄積した麹町・半蔵門近辺のランチのお店情報をまとめて掲載することにしたものです
お昼を食べに出る距離には限度があります。おいしい店があっても、遠ければおのずと足が遠のきます。“ココランチ”に掲載しているお店も、だいたいオフィスから500mの半径のうちに収まっているようです。
新しいオフィスは、元のオフィスから直線で160mほど南西に位置します。半径の中心が移動したので、これから掲載するお店はその分だけ南西に移動することになそうです。これまでは新宿通りの北側の一番町近辺のお店でランチをとることが多かったのに対し、今後は南側の平河町や紀尾井町方面に足が向きそうです。
そんな折も折、“ココランチ”イチオシのお店が閉店してしまいました。二番町の裏道でひっそりと営業していた「魚長」さんです。魚屋さんが始めたお店で、刺身も焼き魚も飛びきり新鮮でおいしくて、半径500mの縁に当たるにもかかわらず遠路何度も足を運びました。
どのような経緯で店を閉めてしまったのか、情報はまったくありません。ランチばかりでなく、一度は夜に訪れてみたいと思いつつも果たせずに終わりました。返す返すも残念です。ご年配のみなさんが切り盛りしておられたので、少々気がかりでもあります。魚長で大もうけして、「これからはのんびりやろうや」という理由での店じまいであれば結構なんですが。〈kimi〉

新オフィスとお囃子の関係

とうとう新しいオフィスに引っ越してまいりました。「とうとう」というのは、「ふ~」という気分を表現しております。いやはやオフィスの移転というのは手間のかかることです。
で昨日、ダンボールから荷物を取り出して整理を始めたところ、窓の直下から突然お囃子が聞こえてきました。麹町三丁目町会の主催するお餅つき大会が始まったのです。
オフィスの窓から
町内と言ったって、都心の真ん中ですから住人はそんなに多くはありません。しかし、毎年ちゃんと餅つき大会とお祭りをやっているのだそうで、さすがは伝統ある麹町です。
お囃子
では、なぜそれが新オフィスの真下なのか。今度のオフィスの大家さんは、町会長さんにして、由緒正しき(その由緒は長くなるので省略)料理屋兼仕出し屋さんのご主人だからであります。
そんなわけで引っ越しの日の昼食は、テントの下で振る舞われたお餅と豚汁とおでんですませてしまいました。
最後に写真をもう一枚。いいですねえ、こんな顔のいる麹町です。
麹町の顔
〈kimi〉

仕分けって難しい

引っ越し準備
ただいまココノッツは来週の引っ越し準備でおおわらわです。夜逃げじゃありませんよ。これまでのオフィスがあまりにも手狭になったので、多少広いところへ移転することにしたのです。床面積は増えるのですが人数も増えるので、一人当たりの面積はかえって狭くなります。効率化と申し上げておきましょう。
移転先はすぐ近くです。近くであっても、荷づくりをしなければなりません。この際、不要な書類や資料を整理しようと考えるは当然です。ところが、その作業には実に莫大なエネルギーを要します。肉体よりも精神のエネルギーの方です。この資料は将来必要になるかな、二度と使わないかな、と一つ一つ判断を繰り返しているうちにクタクタになってしまいます。
1年間一度も使わなかった書類は廃棄!と割り切る方法もあります。しかし、2年目に必要にならないとも限りません。クールな論理ではありますが、合理的とは言えません。工場の5S活動(整理・整頓・清掃・清潔・躾)のような管理方法は、知的労働にはそのまま適用できない、というのが私の長年の主張です。
若いとき、生まれ育った一戸建てをたたんで公団3DKへ越すことになりました。かなりのダウンサイジングですから、大量の家財を処分しなければなりませんでした。少々悲しい気分で捨てまくりました。処分した物のほとんどは、その後必要となることはありませんでしたが、いまもって「しまったな」と悔やんでいるものがあります。
子どもの頃からのクルマ好きで、1950年代後半以降の内外の自動車のカタログを大量に集めていました。一方、ちょうど引っ越しをするときに夢中になっていたのは釣りでした。釣り具のカタログもまた大量に持っていたのです。さて、どちらを処分すべきか。そのときの私はクルマの方を選びました。蒐集したカタログのような外国高級車やスポーツカーを所有することは一生あり得ないだろうと判断したのです。その判断はまったく正しく、いまに至っても所有しておりません。しかし、カタログを捨ててしまったのは間違いでした。いま持っていたら、「なんでも鑑定団」ものだったかもしれません。釣り具のカタログは引っ越しの5年後にすべて捨ててしまいました。いま、釣りをすることはまったくありません。クルマにも興味を失いましたが、あのカタログにだけは無念さが残ります。
というわけで資料の仕分けには神経をすり減らすのです。もうクタクタ。〈kimi〉