ブッたでしょ!

今朝の満員電車での出来事です。
私から3人ほど離れたところから突然「アンタ、ブッたでしょ!」という鋭い声が飛んできました。マスクをかけた女性がけわしい目で誰かを睨んでいます。
しばらく沈黙が続き、やがて電車は次の停車駅のホームへ滑り込みました。そろそろ次のアクションが起こりそうだな、と思っていると、案の定「アンタ、ブッたよね!」と再びきびしい声が聞こえました。
「ブッてないから」と冷たく答えたのは、私に背を向けている女性です。
「ブッたよ。2度も3度も、ヒジでブッたじゃない」
以下、同様の繰り返しが続いたので省略しますが、マスクの女性はこう言い出しました。
「ここで降りなさいよ。降りて駅員さんに言いますから、アンタはブッてないって言えばいいでしょ
そうこうしているうちに、電車はまた動き出してしまいました。二人のテンションは上がるばかりです。近くの男性が、
「どこかに車掌さんへの通報装置はないですか」
と大声を上げました。幸か不幸か、そのような装置は近辺には見あたりません。誰からも声なし。
「次の駅で降りなさいよ」
「なんで降りるのよ。ブッてないんだから」
「それなら駅員さんにそう言えばいいじゃない」
電車は次の停車駅に着きました。
「降りなさいよ!」とマスクの女性は後ろ向きの女性の腕を引っ張ります。
「降りる人がいますから、ちょっと待ってください!」と、ドアから乗り込もうとする乗客を制したのは、先ほどの男性です。この言葉に促されて、対決中の二人の女性はホームに降りました。たまたまそこにいた駅員に、マスクの女性が訴え始めます。補助員のアルバイト学生も駆けつけて、二人を取り囲み、駅員は迷惑そうな顔をしながら、発車の合図をしました
そして電車は動き出し、二人は視界から消えました。
私は一部始終を目撃しておりましたが、ただの傍観者でした。なんで仲裁に入らないんだ、とお叱りを受けそうですが・・・いや実は、どこかで仲裁に入ろうか、と考えてはいたのですが、うまいタイミングが見つかりませんでした。どのようなロジックで説得を進めようかと思案も巡らしたのですが、うまい考えが浮かびませんでした。
二人を置いてきぼりにして電車が走り始めてから、ブツという行為をするくらいなら、原因となる何らかのエピソードがあったはずではないか、と思いつきました。乗車時に先を争ったとか、マスクの女性が顔のそばで咳をしたとか・・・。諍いが始まる前に何があったのか、それを聞き出すことから仲裁を始めればよかったなあ。
もし通報装置が押されていたら少なくとも10分は遅れたでしょうが、電車はほぼダイヤ通りに終着駅へと走り続けました。〈kimi〉

のの字

のの字
エグゼクティブの服装戦略やイメージコンサルティングを手がけておられるFさんはおっしゃいます。どんな筆記具を使っているかで、他人はその人を評価する、と。
私は上着の内ポケットに、シャープペンシルと黒・青・赤ボールペンが使い分けられる4能ペン(と言うのかしら)を刺していました。安物です。そもそも3能とか4能といった姑息な筆記具が他人様からの評価に耐えられるとは思っておりませんが、私は機能優先。長らく愛用しておりました。
その4能ペンが先日、急に不調になってしまいました。シャープを使いたいのに青ボールペンが出る。黒を出そうとすると赤が出る。買い換えなくちゃなあ、と思ったときに思い出したのが冒頭のFさんのお言葉です。それならいっそのこと「高級」万年筆にしてみようか。
そこで初めて知りました。「高級」万年筆には調整が必要らしいのです。名人の手による調整済みの万年筆というものを売っている店もあって、買った直後からヌラヌラとなめらかに書ける、とあちこちのウェブサイトで絶賛されていました。ということは、メーカーから出荷されたばかりの「高級」万年筆は欠陥品か未完成品ということになります。そんなことって、あるのでしょうか。
調整済みの方は正価、またはそれより少し高い値段です。未調整ならネットで半額です。迷いますね、こういうの。価格差は心地よさと安心感を得るための必要経費と考えるべきなのでしょうが、それに倍額を支払う価値があるのかどうか。こんなことに悩むのは私がエグゼクティブでない証拠ですが、さらにそれを決定づけたのは、お値段半額の方を買ってしまったことです。
日本人はカタチのあるものには金を払うが、広報のような抽象的な技術やノウハウには金を払わない、と常々批判しているにもかかわらず、名人の手による調整というintangibleな価値にはついに身銭を切る決心がつきませんでした。
しかし、よく考えてみれば靴だってジーンズだって、買った直後は必ず違和感があるもの。それを我慢しながら身につけていると、いつの間にか身体にピッタリなじんで来るじゃありませんか。同じことが万年筆にも起こるのではないか、というのが、半額の魅力に負けた私の負け惜しみです。
そんなわけで、このところ毎日ペン慣らしに励んでおります。失敗コピーの裏面に何枚も何枚も「の」の字を書き続け、ペン先をなじませております。数日の努力の結果、はっきり変化が自覚できたのは、手がくたびれて来た、ということだけですが。〈kimi〉

スーツにネクタイ

学生時代の私の夢は、総理大臣になることでも大会社の社長になることでもありませんでした。ネクタイを締めなくてもよい仕事に就くこと、それだけです。なんとささやかな・・・。
しかし就職したのは製薬会社。外資系といえども当時の社員はスーツにネクタイ。ジャケット姿もありましたが、全員ネクタイを締めていました。その後に転職した日本の会社は全員背広に白ワイシャツという典型的なドブネズミスタイル(その時代の流行語)でした。その上、広報担当ともなれば、なおのことスーツにネクタイから離られなくなってしまいました。
で、今朝なんですが、電車の中で何気なく周囲を見回したら、視界の範囲内でネクタイをしている人が一人もいない。座席の人も吊革の人も合わせて7~8人がブレザーにノーネクタイでした。クールビズの季節はとっくに終わっています。日本のビジネス界のドレスコードに、大きな変革が起きているのかもしれません。
かくいう私も、今日はそのような服装で出社しております。見事、学生時代の夢を実現しているわけですが、感激はまったくありません。
よくよく考えてみれば時間帯にもよるのでしょう。会社勤めのときは、始業時間の30分以上前に出社していました。いま毎朝乗っている電車は、それより1時間ほど遅いのです。早朝出勤する保守的な企業のサラリーマンはいまもスーツにネクタイ。フレックスタイムなどが導入されている進歩的な企業のサラリーマンはノーネクタイになっているのかもしれません。この点については、今後さらに研究の余地がありそうです。〈kimi〉

感情はサイテー

このところコトが思うように進まない事例が重なったためでしょうか、ある事実に気がつきました。
〈バイオリズム〉という言葉を最近あまり耳にしないなあ、ということです。
人間は、『Physical 身体のリズム』、『Sensitivity 感情のリズム』、『Intellectual 知性のリズム』の3つのリズムに支配されている。それらはP=23日、S=28日、I=33日と、少しずつ周期がずれており、その微妙なずれの影響で、人間にいろんなことが起こるんだそうです。
いつ頃であったか、このバイオリズムが大流行したことがあります。近ごろ流行らなくなったということは、あまりアテにならないということなんでしょうが、試しに今日の私のバイオリズムをサイトで調べてみました。そうしたら、I=知性がもう少しでピークを迎えるところ、P=身体がほぼ真ん中(転換期)、S=感情が最低に近い位置であることがわかりました。頭はよく働いているにも関わらず、感情はサイテーであるということでしょうか。
ウ~ム。なんとなく心当たりがあるような・・・。
どのリズムでも、転換期を迎える日が最もアブナイのだそうで、そう言えばP=身体のリズムがぴったり転換期を迎えた昨日は、昼からお腹の具合が悪くなって困りました。これも、なんだか当たっているような・・・。
まあ、こんなことが気になっているようではいけません。たまたま先ほどある方から、ポジティブ心理学のサイトのURLを教えていただきました。これを実践すると年収が増えるんですって。早速これから読むことにいたしましょう。〈kimi〉

そのうちに・・・

「ご相談したいことがあるんで、近いうちにお電話しますよ」
「一度ゆっくりお話したいのですが」
「お時間のあるときに一杯やりましょう」
このようなお話を承ることがしばしばあります。しかし、それが実現される確率は一割以下です。「あのお話は、その後どうなりました?」と改めて問い直すのもはばかられて、たいていはそのままになってしまいます。
いくら待っても実現しないということは、そのお話はウソであったということになります。
〈まあまあ、そう目くじらを立てずに。外交辞令なんですから・・・〉と言われそうですが、どうにも釈然といたしません。
辞書には載っていませんが「キョウト」と呼ばれる一連の外交辞令があるそうです。
「あ、ずいぶん長居をしてしまいました。もうお暇しなくては」と客が主人に告げると、
「まあまあ、よろしいやおへんか。いま夕飯をそう言いますさかいに」などと京都の人は引き留めるんだそうです。しかし、間違っても、
「そうですか、それならもう少し・・・」と居座ってはいけません。ご主人は夕飯の注文など全然する気がないからです。念の入った京都の奥様は、何も載せていい俎板を包丁で叩いて、夕飯の支度をしているふりをする、という話も聞いたことがあります。これは、早く帰れという客へのサインなのだそうです。
京都人でない私は、とてもそのような高度な交際術は身につけておりません。「相談したいことがある」と言われれば真に受けます。「一杯やりましょう」と言われれば、その日を待ちます。しかし、みんな待ちぼうけです。
反対に、こちらから「そのうち一杯やりましょう」と申し上げたら、必ず実行することにしております。忘れてしまうこともたまにはあるので100%ではありませんが、85%は実行している自信があります。そうだ、あの人との約束はまだ果たしていなかったな、と夜中に目覚めることもあるほどです。だから、あまり「そのうちに・・・」の安売りはしないように心がけております。
それにしても、あれ以来梨のつぶてのあの人、この人(5~6人の顔が浮かびます)、私への約束は一体どうなったのでしょうね。〈kimi〉

レトロスペクティブ嫌い

弊社のAは実にこまめにノートをとります。打ち合わせのときなど、手が動きっぱなし。使っている筆記具は水性ボールペンで、そのインクがすぐになくなるとボヤいています。すげ~。
反対に、私はめったにメモをとりません。ビジネスマン失格なんて言われそうですが、メモをとっても後でそれを見ることがほとんどないことに、ある日、気づいてしまいました。読み返さないなら書く必要がない。これって正論でしょ。
思い起こすと、小学校のときから私は復習をしない子でした。そもそも勉強というものをほとんどしませんでしたけど、イヤイヤやるのは予習だけ(だから成績がふるわなかったんだな)。仕事をするようになってからも、過去の仕事の検証とか報告書の作成などは、できれば御免被りたい。それより新しいプロジェクトの企画とか新製品の発売準備などの方が意欲が湧きました(だから出世しなかったんだな)。
難しい言葉を使えば、レトロスぺクティブな仕事よりプロスペクティブな仕事の方が好きっていうことになりますでしょうか。
そんなわけで、セミナーを受講するときも、一生懸命ノートするより、「なるほどなあ」とか「そうだったのかあ」とか「そうかなあ?」とか「そうじゃないだろう」とか、講師の言葉に触発されながら頭を動かす方がよほど面白い。頭に残らなかった部分は、たいし内容じゃなかったからだ。そう思うことにしました。近頃はスライドがハンドアウトとして配布されるので、ますます細かくノートをとる必要はなくなりました。
誤解のないように付け加えれば、ときには熱心にメモをとることもあるんです。会議の内容をまとめて文章にしなければならないときとか、イベントの手順を打ち合わせるときなど、要点をメモしておかなければ仕事にはなりません。
しかし、そのメモは実に汚い。悪筆にしてグチャグチャです。東大生のノートの対極に位置すると自負しております。そんなお粗末なメモでも、内容の再現性には自信があります。ポイントは外しておりませんのでご安心ください。しかも、他人には何が書いてあるのか判読不明です。セキュリティーも万全ですからご安心ください。〈kimi

日米リリース事情

外資系企業では、海外の本社で原稿を起こしたニュースリリースを翻訳して日本で発信する業務を頻繁に行っています。
医薬品や医療機器の分野に関して言えば、このような外国ネタに対するジャーナリズムの反応は一般に冷たいようです。やはり活きのよい日本のネタがの方がニュースバリューがある、というのが日本人記者の本音なのです。
だからといって、海外からの情報を日本で流さなくてよいということにはなりません。グローバル化が進んでいる今日、海外企業の動向は日本にも十分伝えられるべきだと思います。IRの面からもグローバルに情報を流すのは当然と言えます。
ところが、ちょっと困ったことがあります。欧米流のニュースリリースと日本のニュースリリースの書き方が違うのです。とくに米国は、企業発の情報がそのままストレートニュースとして地方新聞に掲載されることが多いようで、ニュースリリースをそのままコピペしても記事として通用するよう書かれています。日本の新聞社では、ニュースリリースはあくまで記事を書くための資料です。だから、日本のリリースはそのように書かれています。この違いが、英文のリリースを日本語に翻訳して発信するときに問題になります。どうにも違和感が生じてしまうのです。
一例を挙げれば、英文のリリースには、権威者のコメントが掲載されるケースが多い。たとえば、
「術直後の嫌気性菌性腹膜炎患者にとって、外科的治療は必ずしも最善の選択肢ではなく、当抗生剤による内科的化学療法が選択可能であることが証明されたことは医療界にとって大きな朗報です」と、ワシントン・リバーサエナイ病院医療センター感染症部長兼化学療法部長代理兼ICU部長で、ビクター大学医学部内科教授であり、NIHの臨時研究員でもあるブレイク・プアハンド先生は語っています。(内容は私の創作です)
こんなコメントをリリースに書き込んでも、日本の新聞に掲載されることはまずありません。記者自身の取材に基づかないコメントを掲載することなど、まともな日本の新聞は許しません。彼の地では著名でも日本では無名なドクターのコメントをそのまま受け入れる記者さんもまた100%いないでしょう。
日本で記事にしたいなら、徹底的に日本流のリリースに書き換えてしまう方がよいと私は考えています。しかし、逐語訳でないと許さない企業も少なくありません。それも理解できます。ちょっとしたニュアンスの違いで、NYSEに上場している本社の株価が大きく変動してしまう、というリスクもたしかに存在するからです。鳩山首相の論文の一部分が翻訳されて、米国メディアから批判された、と近頃話題になりましたが、それと同じようなことですね。
さて、どうしたものか。翻訳リリースの原稿直しを依頼されるたびに、悩みは深くなるばかりです。〈kimi〉

エラ過ぎる人をトレーニングできるか

メディアとコンタクトする可能性のあるエスタブリッシュメントの方にはぜひメディアトレーニングを受けていただきたい(カタカナばかりでゴメンナサイ)。このような地位にある方々はスピーチをなさる機会も多いので、スピーチのトレーニングも必要でしょう。
ココノッツでは企業の皆様を対象にメディアトレーニングを行っていますが、一番エライ人、カリスマ経営者、オーナー社長などにトレーニングしてほしいというご依頼はほとんどありません。仰ぎ見るような地位に君臨し、周囲にオーラをまき散らしているようなエラい方に向かって、部下が「トレーニングを受けてください」とはとても言えないのでしょう。その気持、よ~くわかります。
ところが、そのような方ほど話がお上手ではないケースがしばしば見られます。エラ過ぎる人は、どんな回りくどい話し方をしても、どんな非論理的な話をしても、どんな飛躍の多い話をしても、どんな不遜な話し方をしても、周囲の人たちはかしこまって聞いてくれます。だからご本人は「それでイイノダ~」と天才バカボンのパパ状態になってしまいます。
なんとかアドバイスをして差し上げたいと、広報コンサルタントとしては歯がゆい思いをすることが少なくありません。部下の方ではとても言えないアドバイスが、外部のコンンサルタントならできる場合もあります・・・と、セールスプロモーションみたいなことを書いてしまいましたが、誰がアブナイって、一番エラい人が一番アブナイんですから。某政党の例をみればよくわかりますね。〈kimi〉

社内の理解

私が広報の仕事をメインにし始めた頃、広報の世界の先輩たちが「会社が広報をちっとも理解していない」、「社内で広報活動を理解してもらえない」と悲憤慷慨されている声を何度となく耳にしました。それから20年、それらは改善しているのでしょうか。
その後、日本の多くの大企業に広報セクションが設けられ、強化されてきたのは間違いのない事実です。その意味では改善されていると言えるでしょう。しかし、それらの企業においても、社員の一人ひとりにまでパブリックリレーションズの理解が及んでいるとはとても言えない状況です。
実際現在においても、広報を仕事をしている人たちの間では、同じような嘆きを聞くことが度々ありますし、あきらめにも似た気分さえ漂っているように思います。
「わかっちゃいねえなあ」などと、広報に無理解な幹部や社員をののしっていても仕方がありません。このような広報やIRに対する無理解には構造的な問題があると、私は考えています。
サラリーマンという存在は、本質的に企業(全体)としての利害より、自己ないし所属部門(部分)の利害を優先するものです。現業部門は、自部門や自分に与えられた売上げと利益目標だけに責任を持たされています。スタッフ部門でも、評価は「自分の仕事の成果」に対して与えられます。だから、自分の業務外の仕事に時間やエネルギーをとられたくない、というのが本音なのです。当然、広報に協力して自分たちにどんな得があるの?という疑問も生じます。
ところが、広報やIRは本質的に全体に奉仕する仕事です。だから、広報と社内各セクションの間で、全体対部分という図式の対立が生じやすいのです。広報と他のセクションが協力してやって行こうというプロジェクトでも、自部門の予算がそれに使われることには拒否反応が出たりもします。自分のものは自分のものなんです。国益よりも省益などと言われるのも、根は同じことでしょう。
また、広報やIRの仕事に協力することは、自分の仕事を公の場にさらけ出すという一面があります。すると、思わぬミスや隠し事が表に出るかもしれません。そのようなリスクをサラリーマンたちは本能的に感じとるので、できればそれを避けたいという思いが強くなります。触らぬ神に祟りなしです。できるだけ情報公開はやめておきましょう、という結論にもなりがちです。
これらの本質的な解決は、経営者の強いリーダーシップなくしてはあり得ませんが、そのようなリーダーには滅多に出会えません。
幾多の障害要因を突き抜けくぐり抜け、うまく回避しつつ目標を達成する。それが広報やIRに携わる人たちのやり甲斐です。どんな仕事にも困難はつきものだし、問題解決することこそ「仕事」というものですからね。〈kimi〉

時計はどっちを向いている?

このところ大学や大学院の教室にうかがう機会が多くなりました。先生の席にすわったり学生の席にすわったり、いろいろなんですが、どちらにすわっても時間が気になります。そこで不思議なことにがついてしまいました。教室の時計はたいてい生徒の方を向いている、つまり先生の背中側の壁にかけてあるという事実です。
ところが、落語や漫才をやる寄席では、時計は必ず芸人さんの正面、つまり客席の背中側に掛かっています。教室とは正反対です。
寄席では、お客さんには楽しい時を過ごしてもらいたい。上演中は時間を気にしないでもらいたい。お客さんが時間を気にするようなら、その芸はお粗末ということになります。だから時計は観客から見えにくい位置に掛かっています。
出演する落語家や漫才師には15分とか20分とか、持ち時間が厳しく指定されています。プログラム通りの時刻に「お後がよろしいようで」と下がってもらう必要がある。そのために芸人さんの真正面に時計があるわけです。寄席の時計の位置は実に合理的です。
教室の時計の位置は、つまらない講義から解放されるまでのカウントダウンを学生にさせるためなのでしょうか。教師は時間を気にせず好きなだけ講義を続けなさいということなんでしょうか。よくわかりません。時間を気にする講師はわざわざ腕時計を外して台に置いたりしています。これってすごい不合理です
大学の事務当局はただただ前例にならっているだけで、な~んにも考えていないということなんだろうと思いますが、これって顧客視点に立っていませんよね。少子化が進んで大学も大変な時代だというのにねえ。〈kimi〉